1905年、日本海の波間で歴史を変えた男たちがいました。
日露戦争最大の決戦「日本海海戦」で日本の連合艦隊を率いた東郷平八郎、そしてロシア帝国の誇るバルチック艦隊を率いた提督ロジェストヴェンスキー、戦いの後この二人は静かに握手を交わしました。
バルチック艦隊の壮絶な航海、激闘、そして二人の提督が交わした歴史的な握手の意味とは…。
バルチック艦隊の運命

ロシア帝国が日本に戦いを挑んだのは、極東における勢力拡大を狙ったためでした。
しかし日露戦争が始まると、旅順艦隊はすでに壊滅状態、そこでロシアはヨーロッパのバルト海から、遠く日本海を目指す「バルチック艦隊」を派遣します。
艦隊を率いたのは、ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督、彼は厳格な性格で部下から鉄面皮と呼ばれるほどの人物でした。
艦隊はアフリカの喜望峰を経由し、約3万キロ、7か月以上にわたる世界一周の航海に挑みました。
しかし士気は低下し、機関は疲労、燃料や補給も不足し、戦う前からすでに限界が見えていました。
それでもロジェストヴェンスキーは任務を全うするため、必死に部下を鼓舞し続けたといわれています。
そして1905年5月、ついに彼らは日本海へと到達、「ここが我々の運命の海だ」そう彼が呟いたと伝えられています。
東郷ターンが歴史を変えた日本海海戦の奇跡
迎え撃つ日本の連合艦隊を率いていたのは、東郷平八郎大将でした。
5月27日、対馬沖で両軍が遭遇、東郷は敵の進路を横切るように艦隊を転舵し、全艦の砲門を一斉に敵へ向けます。
これが後に「東郷ターン」と呼ばれる戦術です。
日本の砲撃は驚くほど正確で、次々とロシア艦を撃沈していきました。
一方、ロシア艦隊は長旅の疲労と訓練不足で連携を取れず、砲弾も命中しません。
ロジェストヴェンスキーは頭部に破片を受けて重傷を負い、指揮不能となり戦闘は一日で決着、ロシアの艦船38隻のうちほとんどが沈没または拿捕されました。
日本側の損害はわずか3隻、まさに歴史的な大勝利でした。
この結果に世界は驚愕し、東郷は「東洋のネルソン」と称えられたのです。
東郷とロジェストヴェンスキーの握手
戦いが終わった後、重傷を負ったロジェストヴェンスキーは日本の駆逐艦に救助され、長崎・佐世保の海軍病院へ送られました。
意識を取り戻した彼のもとを訪れたのは、勝者である東郷平八郎本人でした。
東郷は静かに病室に入り、通訳を通してこう言葉をかけたといわれています。
「軍人として、名誉ある敗北を少しもはじることはありません。我々戦うものは、勝つにしろ負けるにしろ、ともに苦しみます。大切なことは、我々がその義務を果したかどうかです。二日間の戦闘中、貴官の将兵諸子は、実に勇敢に戦われた。私は、心からの賞賛をおしみません。貴官は偉大な任務を遂行され、途中はからずも負傷されました。私は貴官に心からの尊敬をささげます。どうか一日もはやく回復されますように」
ロジェストヴェンスキーは目に涙を浮かべ、「敗れた相手が閣下であったことが、私の最大の慰めです」と述べ、ゆっくりと右手を差し出し、東郷はその手をしっかりと握り返したといいます。
その瞬間、敵と味方という立場を超え、軍人同士としての魂の握手が交わされたのです。
当時の日本人はこの出来事に深く感動し、新聞各紙は「敵をも敬う武士道の精神」として東郷を称えました。
この握手が示したのは、戦争の勝敗を超えた「人として相手を認める」姿勢でした。
まとめ
東郷平八郎は敵を貶めることなく、誇りをもって戦った相手に敬意を表し、ロジェストヴェンスキーもまた、敗北の中で人としての尊厳を守り抜いたのです。
二人が交わした握手は、武力ではなく人間の品格こそが国の強さを示すという普遍の真理を語りかけています。
100年以上経った今でも、その握手は「勝ち方の美学とは何か」を私たちに教えてくれています。
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