整形や偽名を駆使し、警察の目を欺き続け、14年以上も逃亡生活した一人の女性、その名は「福田和子」。
彼女が起こした松山ホステス殺害事件とは何だったのか。
そして、なぜ逮捕は時効寸前の1997年にまで持ち越されたのか。
その驚くべき逃亡劇と共に事件の全貌を紹介します。
松山ホステス殺害事件とは
1982年8月19日、愛媛県松山市で発生したこの事件は、当時社会に大きな衝撃を与えました。
被害者はホステスの女性(当時31歳)で、元同僚であった福田和子(当時34歳)に殺害されたのです。
事件は金銭トラブルを背景に、和子が被害者の首を絞めて殺害、遺体を松山市内の山中に遺棄。
事件後、福田和子とその夫は被害者の自宅から家財道具一式運び出して逃亡。
夫は後に死体遺棄の共犯として逮捕されますが、福田和子はその後15年間にわたる逃亡生活が始まります。
福田和子の逃亡生活
1982年、事件発生後の8月23日、福田和子は松山駅から急行列車と宇高連絡船を利用して本州へ逃亡します。
当初の逃走資金は約60万円で、これを元手に逃亡を続けました。
夫が逮捕される中、福田和子は偽名を使いながら転々と移動を繰り返しました。
1983年、和子は金沢市で最初の仕事を探しますが、34歳という年齢が理由で飲食店の採用を断られます。
それでも、不採用となったスナックの経営者に情けをかけられ採用されました。
採用後、すぐに整形手術を受けるため上京。
その後、金沢に戻り、働きながら石川県内の和菓子店主と知り合い、内縁関係を築きます。
この和菓子店では実の子どもを親戚と偽って呼び寄せ、一緒に働かせるなど、表向きは普通の生活を送っていました。
1986年、和子の指名手配書が全国に貼られ始めると、和菓子店の家族も彼女の素性を疑い始め通報。
通報された和子は自転車で逃亡し名古屋市に移動します。
名古屋市内のラブホテルで住み込みの客室係として働き始めましたが、同僚が指名手配写真を見て和子に自首を勧めたため再び逃亡。
1988年〜1992年、名古屋を離れた和子は福井市に現れ、ホステスとして働き始めました。
その後、大阪市内の売春宿に移るが、長続きせず再び転々と移動を続けます。
警察はこの頃、手配写真入りのテレホンカードを配布するなど異例の捜査手法を取り始め、公訴時効が迫る中で追跡を強化していきます。
時効直前の1996年頃、福田和子は福井市内のビジネスホテルを定宿としながら、地元のおでん屋に頻繁に通っていました。
1997年、テレビの特別番組で和子の特集が放送されると、常連客が指名手配写真と和子を照らし合わせ警察に通報します。
店主から提供された付着したビール瓶やグラスの採取された指紋が決め手となり、福田和子は店を出たところで逮捕されました。
1997年(平成9年)7月29日、約15年にわたる福田和子の逃亡生活の終わりを告げる瞬間でした。
逮捕後とその後の人生
逮捕後、福田和子は「自分が殺人を犯したわけではない」と主張し、「共犯者」の存在を口にしました。
しかし、その共犯者とされる男性は既に死亡しており、直接的なアリバイ確認ができない状況に…。
しかも、時効まで残された時間は6日。
このわずかな時間で「共犯説」の嘘を立証できなければ、時効が成立してしまうという極限状態でした。
警察は男性の親族や関係者に徹底的に確認を取るも、当時の状況を知る人はほとんどおらず、15年前の記憶も曖昧。
そんな中、奇跡的に発見されたのが、男性が生前に残していた数年分の日記でした。
この日記には、事件当時の男性の行動が詳細に記録されており、東京にいたことが記されていたのです。
さらに、男性が勤めていた会社の関係者や、その記録を徹底的に洗い出し、日記の記述を裏付ける証拠を集めました。
その結果、男性が事件当日に愛媛の松山にはいなかったことが証明され、「共犯説」は完全に崩れ去ります。
時効まで残された数日というタイミングでの証拠の積み上げは、まさに執念の一言に尽きます。
もし供述がわずかに遅れていたら、あるいは日記が発見されていなかったら、この起訴は実現しなかった可能性が高かったでしょう。
この事件は、捜査官たちの粘り強さと、偶然の要素が奇跡的に重なった結果、真実が明らかになったものです。
そして、時効制度の厳しい現実をも浮き彫りにしました。
このような事件を通じて、法律の在り方や捜査の限界について、私たち一人ひとりが考える必要があるのかもしれません。
その後、時効成立の11時間前に「強盗殺人罪」で起訴。
裁判では無期懲役の判決を受け、刑務所に収監されました。
福田和子は裁判で一部の罪状を認めたものの、逃亡中の詳細については多くを語ることはありませんでした。
服役中に和子は、くも膜下出血のため緊急入院、2005年3月10日和歌山市内の病院にて脳梗塞により死去、没年57歳でした。
逃亡生活とその果てに迎えた最期は孤独なものであり、多くの人々に強い印象を残しました。
まとめ
福田和子が起こした松山ホステス殺害事件とその後の逃亡劇は、日本の犯罪史において特異な事例として語り継がれています。
そして、この事件は犯罪者を逃さないための制度の改正を促し、時効の是非について考えさせられる契機ともなりました。
また、被害者や遺族にとって、真実が明らかになるまでの年月はどれほど長く苦しいものであったかを忘れてはなりません。
福田和子の事件は、法律や犯罪心理、そして社会の在り方について深く考えさせられる一件です。
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