1598年、泗川で島津義弘率いる島津軍がたった5000人の兵で20万の朝鮮軍を壊滅させた。
歴史の教科書でも触れられるこの戦い、実際の現場ではどのようなドラマが繰り広げられたのか?
今回はその真相に迫ります!
島津軍が大勝した「泗川の戦い」
泗川の戦いとは?
泗川の戦いは1598年10月に朝鮮半島の泗川で行われた戦いで、文禄・慶長の役の合戦の一つです。
この戦役は天下人となった豊臣秀吉が、明の征服を目指し行ったもので、毛利家を始めとし、当時日本で戦功を挙げていた多くの武将が参加していました。
そんな中で、朝鮮半島の泗川で守備を命じられていたのが、島津義弘率いる島津軍でした。
島津家の家訓「いろは歌」や「二十の掟」にも表れているように、彼らは厳しい規律と高い士気を持ち、統率力も抜群でした。
戦上手で、その強さについて、豊臣秀吉は「島津を敵に回してはならない」と、こぼしたほどだとされています。
この泗川の戦いでは、島津義弘率いる5000人の日本軍が、20万の明・朝鮮連合軍と対峙しました。
泗川の戦い
泗川の戦いが始まる前の1598年8月、文禄・慶長の役を始めた本人である豊臣秀吉が死去
しかしこの死は秘匿されており、朝鮮にいた武将らには通達されませんでした。
秀吉の死とともに撤退命令が出されたのは、それから2ヶ月後の10月に下るも、すでに日本軍は明・朝鮮連合軍の猛攻を受けることになります。
明と朝鮮の連合軍は3路の陸軍と1路の水軍を使用した「四路兵進策」で、同時攻撃を仕掛けてきました。
大軍の動きを察知した島津義弘は、配下に守備させていた4か所からの撤退と自身のいる新城への集結を命じました。
ところが、泗川古城にいた川上忠実率いる数百の兵だけ撤収が 遅れ、連合軍に包囲されることとなってしまったのです。
川上忠実側は150人あまりの戦死者を出しつつも、連合軍の包囲を突破して脱出する事ができました。
さらに川上忠実は、帰還する際に連合軍の食糧庫の焼き討ちを指示、この焼き討ちにより連合軍の食糧不足を加速させ窮地に陥らせることになります。
こうして軍法を練り始めた島津軍と、短期決戦を余儀なくされた明・朝鮮連合軍は、いよいよ衝突していくこととなりました。
10月1日、明・朝鮮連合軍は泗川の新城を総攻撃。
この時点で、島津の軍勢は5000〜7000人、明・朝鮮連合軍の軍勢は約4〜20万と圧倒的な兵力差がありました。
島津軍は、新城に強固な陣を張って待ち構え、防戦一方になりながらも待ち構えます。
長い戦いで新城は、大砲で門や城壁の至る所が破壊され、連合軍の軍勢が掘りを超え城内に押し寄せようとしてきました。
すると、島津義弘は攻撃命令を出し、押し寄せた連合軍の前線に鉄砲隊の一斉射撃を開始しました。
これにより突撃部隊は一撃で粉砕、さらに城外に配されていた伏兵たちが連合軍を襲い隊列を分断、連合軍には激しい動揺が広がったのです。
実は、この防戦や退却を装って敵を目前まで釣り上げ、伏兵と囮の両隊で包囲し一網打尽にするという戦法「釣り野伏」と名付けられた戦い方は、島津家お得意の戦法でした。
さらに、島津義弘は城門を開いて突撃命令、士気が最高潮に達していた島津軍は連合軍へ目がけ飛び出して行きました。
凄まじい勢いで連合軍を次から次へと切り捨てていき堪らず撤退を決意、島津軍はわずか数千の兵で大勝しました。
連合軍側で撤退できた兵力は、わずか1万ほどとされている一方、島津側の戦死者はわずかに2人だったという情報も残されています。
泗川の戦いは島津軍の圧勝に終わり、島津義弘の名は日本のみならず、朝鮮・明国にまで轟くこととなりました。
まとめ
泗川の戦いは、島津家の戦術力と兵の高い士気が生んだ奇跡の戦いです。
この戦いを通じて、島津家の強さと、その背景にある信念や規律、歴史の奥深さを感じていただけたのではないでしょうか。
泗川の戦いのような歴史的事件は、教科書だけでは分からないドラマがたくさん詰まっています。
ぜひ、興味を持った方は更に深く調べてみてくださいね!
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