幕末から明治にかけて、日本の社交界を彩った一人の美しい女性がいました。
その名は「陸奥亮子」。
元芸者という異色の経歴を持ちながら、外務大臣の妻として華やかな人生を送った彼女ですが、その裏には数々の苦難と困難が隠されています。
彼女がどのようにして「鹿鳴館の華」と称されるまでになったのか、その壮絶な生涯を紹介します。
社交界、伝説の美人妻・陸奥亮子
幕末の動乱期に生まれた陸奥亮子は、その美貌で知られる一方、波乱に満ちた人生を歩んだ女性でした。
1856年に旗本の庶子として生まれた彼女は、幼少期から美しいと評判でしたが、その美貌が彼女の運命を大きく左右することになります。
亮子は、正妻でない女性が産んだ私生児で、立場が弱く正妻から妬まれたのか、13歳の頃、東京新橋の芸者「小鈴」として生きる道を選ばざるを得なくなりました。
当時の新橋は、名だたる美人芸者たちが集う場所で、亮子もまたその中で注目を集める存在となります。
亮子は、目鼻立ちがはっきりとした美貌で、女好きで有名な伊藤博文も惚れ込んだそうです。
しかし、彼女はただ美しいだけでなく、強い意志を持ち、身を売らないという信念を貫いていました。
この気高さと美しさが、彼女の運命を大きく変えることになります。
亮子が出会ったのは、幕末の志士として名を馳せた陸奥宗光でした。
宗光は、坂本龍馬とも親交があり、維新後は兵庫県知事や神奈川県令を務めた人物でもあります。
亮子が17歳の時、彼らは結婚し、新たな人生が始まり、陸奥宗光を支える妻としての役割を果たしていきました。
しかし、幸せな日々は長く続きません。
結婚してわずか、明治11年に宗光が政府転覆の疑いで逮捕、除族と禁固5年の刑で監獄に収監されます。
亮子は、姑である伊達政子と共に、獄中の宗光を支え続けました。
獄中、50通を越える宗光との手紙のやり取りを通じて、その愛情を深め続けたのです。
宗光が4年後に出獄すると、彼は再び政界に復帰し、ヨーロッパ留学を経て外交の舞台で活躍します。
亮子もまた、夫と共にヨーロッパに渡り、その美貌と教養で現地の社交界でも高く評価されました。
そして帰国後、亮子は「鹿鳴館の華」として日本の社交界にデビューします。
彼女の美しさと気品は、外国人からも称賛され、彼女はまさに社交界のトップスターとなりました。
しかし、彼女の人生は再び試練を迎えます。
1893年に一人娘の清子を失い、さらには1897年に夫の宗光と死別するという悲劇が彼女を襲います。
亮子は、かつて自分が苦しんだ立場にあった芸者との間に生まれた子供を引き取り育てるという複雑な心境を抱えながらも、最後まで毅然とした態度で生き続けました。
彼女は1900年に45歳の若さで亡くなりましたが、その波乱に満ちた生涯は、多くの人々に影響を与え続けました。
まとめ
陸奥亮子の生涯は、単なる美しさだけではなく、強さと信念を持って生き抜いた女性です。
彼女は幕末から明治という激動の時代に、自らの運命を切り開きながら生きていきました。
亮子の生き様は、現代を生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
Via|Wikipedia(引用・参考)
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