1954年、アメリカのビキニ環礁で行われた水爆実験で、第五福竜丸が巻き込まれた「ビキニ事件」の全貌と、被ばくによる恐ろしい影響とは?
日本は「原爆の国」から「水爆の国」にもなってしまいました。
そして、その後の裁判について紹介します。
ビキニ水爆実験で被ばくした第五福竜丸事件
ビキニ水爆実験の全貌と「死の灰」
1954年(昭和29年)3月1日、アメリカは太平洋のマーシャル諸島に位置するビキニ環礁で、水素爆弾「ブラボー」の実験を行いました。
この爆弾は、広島に投下された原爆の約1000倍もの破壊力を持つ、史上初の水素化リチウムを使用した核融合兵器でした。
しかし、想定を超える核出力により、実験地域外にまで放射性降下物、いわゆる「死の灰」が広がる事態となったのです。
第五福竜丸と漁船の被ばく
この時、日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」は、ビキニ環礁から約160km東方の海域で操業中でした。
アメリカ側の設定では、このエリアは安全圏内とされていましたが、現実には大量の「死の灰」が降り注ぎ、乗組員全員(23名)が放射線にさらされることになりました。
被ばくした乗務員は、帰港までの2週間、乗組員は、火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など放射線による「急性放射線症状」に苦しみ、帰港後に治療を受けましたが、無線長の久保山愛吉氏は半年後に命を落としました。
第五福竜丸被爆者22名の事故後の健康状態調査は、放射線医学総合研究所により長期継続的に行われました。
2004年までに12名が死亡した報告されています。
その内訳は、肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。
また、生存者の多くには肝機能障害があり、肝炎ウイルス検査では、A・B・C型とも陽性率が異常に高いと報告されました。
ビキニ水爆実験では「第五福竜丸」以外に多くの被災船が存在し、水産庁が2015年に開示した文書によれば、被爆した船舶数は1423隻、漁獲物を廃棄した船は992隻であったとされています。
マーシャル諸島への影響
ビキニ水爆実験による被害は、日本の漁船だけに留まりませんでした。
実験が行われたマーシャル諸島の住民もまた、放射線被ばくに苦しむことになりました。
彼らは土着の土地を奪われ、避難を余儀なくされましたが、その後も放射線による健康被害に悩まされ続けています。
島民は、ロンゲリック環礁へ、さらにキリ島へと移住させられ現在も、原島民は島に戻れていません。
ビキニ島に人が居住できるようになるのは、早くても2052年頃と推定されています。
国に対する損失補償裁判
第五福竜丸事件を受け、日本政府はアメリカ政府に対して賠償を求めましたが、交渉は難航。
昭和26年(1951)9月に締結されたサンフランシスコ平和条約によって、原爆投下による被害をアメリカに賠償を求められない状況になっていました。
加えて、水爆実験についても「見舞金による完全決着」で合意したことでアメリカへの賠償請求ができない状況だったのです。
最終的にアメリカは見舞金として200万ドルを支払うことで合意しましたが、これは「全ての請求を解決する」という条件付きで政治決着しました。
そのため、日本はさらなる賠償請求の道を断たれ、この決定は、多くの日本人にとって不満の残る結果となり、国内の反核運動の大きな推進力となりました。
まとめ
ビキニ水爆実験による第五福竜丸事件は、日本が再び核の恐怖に直面した悲劇的な出来事です。
この事件をきっかけに、日本国内では核兵器に対する強い拒否感が生まれ、反核運動が全国的に広がることになりました。
過去の教訓を忘れず、今後も平和を守るために私たちが何をすべきかを考えるきっかけとしたいですね。
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