戦国時代には数多くの武将や剣士が名を馳せましたが、その中でも一際異彩を放つ存在が「別所波」です。
彼女は女性でありながら、あの豊臣秀吉をも苦しめた最強の女剣士として知られています。
今回は、勇敢な戦いぶりや彼女が迎えた衝撃的な生涯を紐解いていきます。
戦国最強女剣士・別所波
戦国時代に生きた女性の中で、これほどまでに波乱万丈な人生を送った者は少ないかもしれません。
別所波、彼女は戦国最強の女剣士として歴史にその名を刻んでいます。
波は、畠山昭高(はたけやまあきたか)の娘として生まれ、後に別所吉親の妻となります。
夫である吉親は、織田信長の下で中国地方を攻略していた羽柴(豊臣)秀吉に従う三木城主・別所長治の叔父にあたります。
波の生まれた年や、別所吉親と結婚した時期については定かではありませんが、彼女が三木合戦で見せた勇猛さは数々の記録に残されています。
当時の戦国時代、女性が前線で戦うことは非常に珍しいことでした。
しかし、波はその例外中の例外、彼女は三木城における激しい戦闘において、女性でありながらも秀吉軍に恐れられる存在となりました。
三木合戦は、天下統一を目指す織田信長が中国地方の覇者・毛利氏を討つため、秀吉に命じて行われた戦いです。
秀吉に従っていた別所長治が、毛利氏に寝返ることで戦が始まりました。
波の夫・吉親は、若き長治をサポートする役割を担い、彼自身も戦場で奮戦しましたが、波もその戦いに加わり、敵兵を次々と斬り伏せるなどの武勇を見せたのです。
特に、波が輝いたのは夜襲の際でした。
秀吉軍に対して行われたこの奇襲作戦で、波は剣を振るい、次々と敵兵を倒しました。
伝説では、波がこの奇襲作戦で7人もの兵士を斬ったと言われています。
さらに、攻め寄ってくる豊臣軍に対し、弓矢を打ちかけ、豊臣軍の20人以上を戦闘不能にし、その後は馬に乗って男たちを打ち取ったと言うのです。
秀吉軍は波の猛攻に耐えきれず、一時撤退を余儀なくされました。
これが後に、秀吉が波を「鬼神のような女」と評することにつながります。
しかし、戦局は次第に秀吉側に傾いていきます。
秀吉は兵糧攻めという戦略を取り、三木城は次第に追い詰められていきました。
籠城が長引くにつれ、城内は飢餓状態に陥り、波を含む別所一族も次第に追い詰められていきます。
それでも波は戦意を失わず、最後まで秀吉軍に抵抗しました。
そして、迎えた最期の時。
天正8年(1580年)1月、別所氏はついに降伏を決意します。
「殿、わたくしが先に行き、この子らと一族の皆をお待ち申し上げたく存じます」
波は、自らの手で3人の子どもを刺し殺した後、刃を口にくわえて自害したと伝えられています。
生年不詳だが20代後半・28歳だったとされています。
彼女の最期は、壮絶という言葉では言い尽くせないものでした。
波の生涯は、その勇猛さと悲劇性において、まさに戦国時代を象徴するものです。
彼女の名前は、現代の歴史書には多く残されていませんが、その勇気と強さは、今でも多くの人々の心に響くことでしょう。
まとめ
彼女の生涯は一度知れば忘れることのできないものです。
戦国時代の女性として、そして武士として生きた彼女の姿は、現代の私たちに多くのことを教えてくれます。
波が見せた勇敢な戦いぶりとその最期は、戦国時代の激動を生き抜いた証です。
今後も、歴史の中に埋もれた彼女のような人物の生涯に目を向けていきたいですね。
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