華族として生まれ、宮妃となり、その後平民へと身分を変えた「梨本伊都子」の人生は、一言では語り尽くせないほど波乱に満ちています。
華やかな皇族生活と、戦後の厳しい現実に直面した彼女の生涯を、現代に生きる私たちはどのように受け止めるべきなのでしょうか。
今回は、梨本伊都子の強さと品格に迫ります。
最後の貴婦人「梨本伊都子」
梨本伊都子、1882年にイタリアのローマで生まれた彼女は、日本の華族・鍋島家の次女として幼少期を過ごしました。
父は佐賀藩最後の藩主であり、駐イタリア公使として赴任していたことから、伊都子は「イタリアの都の子」という意味で「伊都子」と名付けられました。
彼女は幼い頃から、華麗で厳格な教育環境で育ちましたが、贅沢を許さない鍋島家の方針により、自らの足で学校に通うなど、地に足のついた生活を送ります。
14歳の時、彼女の人生に大きな転機が訪れます。
明治天皇の裁可を得て、梨本宮守正王との婚約が決まり、18歳で宮妃となったのです。
この結婚により、彼女は「守正王妃伊都子」として皇族の一員となりました。
この時、結婚に当たって、皇后美子(昭憲皇太后)から「ダイヤモンド真珠入り腕輪」などを下賜され、父 直大からは、パリに注文した宝冠(2万数千円相当)など宝石類一式を贈られています。
しかし、宮妃としての生活は決して華やかさだけではありませんでした。
夫である守正王がフランス留学中、彼女は日本赤十字社で看護学を学び、日露戦争が始まるとその知識を活かして傷痍軍人の慰問や看護活動に献身します。
彼女は、ただの宮妃ではなく、社会に貢献する女性としての役割も果たしました。
その後、守正王と共にヨーロッパの王室を歴訪するなど、国際的な視野を広げた伊都子は、帰国後も宮妃としての責務を全うしました。
しかし、時代は激変します。
太平洋戦争が勃発し、東京空襲で梨本宮邸が焼失するなど、伊都子の生活は一転して困窮を極めました。
終戦の際の日記には「これから科学を発達させより以上の立派な日本になさねばならぬ、生命をかけて戦ってきたのに敗北した兵士の方々その家族の無念を思うと、この恨みは晴らさ ねばならぬ」と書いています。
そして終戦後、1947年(昭和22年)10月14日、皇室典範第11条1項により皇籍を離脱。
皇籍を離脱した彼女は、平民として人生を歩み始めます。
これまでの豪華な生活とは打って変わり、戦時補償特別税や財産税の支払いのために財産を売却するなど、経済的に厳しい状況に追い込まれました。
1958年(昭和33年)に巻き起こった、正田美智子嬢が昭仁皇太子妃の「ミッチー・ブーム」には、香淳皇后や妹で常磐会会長の松平信子、姪の秩父宮妃勢津子らと共に強く反発した。
皇太子明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記には、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」と記しています。
ただ、昭和天皇の意向もあり、以後は勅許が下りた婚儀に対して表立って批判することはなくなりました。
智子妃に対する旧皇族の批判として、歴史に残るものとなっています。
それでも彼女は、最後の貴婦人としての誇りを持ち続け、貴族としての品格を保ち続けました。
晩年、彼女は自伝『三代の天皇と私』を出版し、自らの経験を後世に伝えています。
その中には、大正天皇との関わりや、彼女が貴婦人としての立場をどのように全うしたかが詳細に記されています。
彼女の記録は、当時の皇族の生活や考え方を知る貴重な資料として今も価値があります。
彼女の生涯を振り返ると、華やかな生活を送った前半生と、戦後の苦難に満ちた後半生が対照的に浮かび上がります。
梨本伊都子は、時代の波に翻弄されながらも、自らの品格を失うことなく生き抜いた「最後の貴婦人」として、私たちに多くのことを教えてくれます。
まとめ
梨本伊都子の生涯は、華族としての誇りを持ち続け、どのような困難にも屈せず生き抜いた姿が印象的です。
華やかな皇族生活から平民としての生活に至るまで、彼女の波乱に満ちた人生は、まさに「壮絶」という言葉がふさわしいのではないでしょうか。
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