伊藤千代子は、昭和初期に「非国民」と呼ばれながらも、自らの信念を貫いた壮絶な人生を送った女性です。
彼女の生き様は、ただの歴史の一ページではなく、今を生きる私たちにも多くのことを教えてくれます。
そんな伊藤千代子の知られざる壮絶な人生を紹介します。
貧困と格差に立ち向かう少女時代
伊藤千代子は、1905年(明治38年)に信州諏訪で生まれました。
貧しい家庭で育った彼女は、幼少期から社会の不平等に心を痛めていました。
当時、日本はまだ天皇を頂点とした専制政治が続いており、貧富の差が大きく、労働者たちは過酷な条件で働かされていた時代です。
千代子は 「朝から晩まで働いても、満足にご飯が食べられない貧しい人たち、一方では贅沢をしている人たち。 この不公平な社会をなんとかよい社会にしたい」という強い思いを抱き、その思いが彼女の人生を大きく動かしていきます。
社会主義との出会いと運命の転換点
彼女が本格的に社会問題に関心を持ち始めたのは、東京女子大学に入学してからです。
千代子は大学で英語を学びながら、西欧の思想や文学に触れました。
その中で彼女が特に影響を受けたのが、マルクスやエンゲルスといった社会主義の思想家たちです。
資本主義の矛盾を指摘し、平等な社会を目指す彼らの考えは、まさに千代子が抱いていた疑問に答えるものでした。
当時、共産主義は日本で違法とされていましたが、千代子はそのリスクを承知の上で労働者のために立ち上がりました。
彼女は学内で社会主義サークルを作り、仲間たちとともに勉強会を開いたり、労働者支援の活動を行ったりしました。
この頃から千代子は、ただの学生ではなく、一人の活動家としての道を歩み始めます。
「非国民」と呼ばれた覚悟
大学在学中、千代子は労働農民党という無産階級の政党に参加し、さらに日本共産党とも連携を深めていきます。
共産主義が日本の君主制を脅かす存在とみなされていた当時、彼女のような活動は「非国民」と呼ばれる危険なものとされていました。
1928年、共産党と労働農民党は選挙で躍進しましたが、それを恐れた政府は3月15日に「三・一五事件」として、全国的な弾圧を行いました。
千代子もこの事件で検挙され激しい拷問を受け刑務所へ送られました。
彼女はその後、獄中で精神的にも肉体的にも追い詰められましたが、それでも自らの信念を曲げることはありませんでした。
獄中では侵略戦争に反対し、主権在民、ジェンダー平等の社会への志を貫きました。
当時、「赤化華族事件」で知られる「岩倉靖子」は、共産党員や共産主義者として有名な人物でした。
赤化華族事件とは、特権階級であった華族の中に、共産党員がいたことで発覚した事件です。
岩倉靖子は、大共産主義者の会合に参加、「自身の生活の贅沢さと比べ、なぜ世の中はこんなに格差があるのか?」と強く思うようになりました。
その後、岩倉靖子も検挙されますが、華族という身分、岩倉具視のひ孫でもあるため、処罰はありませんでした。
愛する人の裏切りと過酷な選択
さらに千代子にとって辛かったのは、夫であり同志でもあった「浅野晃」の裏切りです。
浅野は獄中で転向を表明し、政府側に迎合しました。
千代子は夫の裏切りに深いショックを受けながらも、最後まで自らの信念を貫きます。
彼女は、獄中での厳しい拷問や非人道的な扱いにも屈せず、共産主義を支持し続けましたが、最終的に彼女の心身は蝕まれていきました。
獄中生活の中で精神病を患い、肺炎を併発し1929年にわずか24歳という若さでこの世を去ります。
千代子の遺したもの
千代子が命を懸けて訴え続けたものは、当時の人々には理解されにくいものでしたが、その信念は戦後の日本国憲法に受け継がれました。
特に彼女が掲げた主権在民やジェンダー平等の思想は、現代にも生き続けています。
千代子が「非国民」として呼ばれ、壮絶な人生を送ったことは、今を生きる私たちが直面する社会問題や不平等にどう向き合うべきかを問いかける重要なメッセージとなっています。
まとめ
伊藤千代子は、貧困と格差に苦しむ人々のために立ち上がり、国家の弾圧や愛する人の裏切りにも屈せず、最後まで自らの信念を貫きました。
彼女が追い求めた平等社会や人権の尊重は、私たちが今も考えるべき大切なテーマです。
現代の日本でも、彼女のように声を上げることの大切さを忘れてはならないのかもしれません。
※写真|伊藤千代子こころざしの会(より引用)
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