与謝野晶子と聞くと、多くの人は「君死にたまふことなかれ」を思い浮かべるのではないでしょうか。
彼女は日本文学史に残る偉大な歌人であり、当時の常識を打ち破る強い個性を持った女性でした。
そんな彼女の人生には「君死にたまふことなかれ」巡って「非国民」と呼ばれるような壮絶な出来事がありました。
非国民と呼ばれた与謝野晶子の人生
与謝野晶子は、明治から昭和にかけて活躍した歌人で、本名は与謝野志やう(しょう)、旧姓は鳳(ほう)で、後に不倫相手だった与謝野鉄幹と結婚し、「晶子」という名前で知られるようになりました。
晶子が世に知られるきっかけとなったのは、彼女が発表した歌集『みだれ髪』です。
この作品は、彼女の官能的な表現が大胆で、当時の女性観を大きく覆すものでした。
そんな彼女の最大の転機は、1904年の日露戦争でした。
晶子の弟が従軍した際、彼女は『君死にたまふことなかれ』という詩を発表します。
「ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。」
詩の意味「弟よ、君を思って泣いています。どうか死なないでください。末っ子として生まれた君を、親はより愛情を持って育ててきましたが、親は君に刃を握らせて人を殺せと教えたでしょうか。人を殺して死ねと言って24歳まで育てましたか。」
この詩は、戦地に出征した弟を思い、命を守ることの大切さを訴えた姉の気持ちが込められています。
しかし、この詩が発表された当時、日本では戦争に対する批判は非常に厳しいものでした。
戦争に行くこと、戦死することは「国のための名誉」であり、それを否定することは国家を裏切る行為とみなされたのです。
晶子はこの詩を発表したことで、「非国民」として激しい非難を浴びました。
彼女の詩に対しては、文学者や評論家からも批判の声が上がり、特に大町桂月という当時の著名な文芸評論家からの批判は厳しいものでした。
桂月は、「晶子の詩は皇室を冒涜し、国家のために命を捧げることを否定している」として、彼女を「乱臣」「賊子」とまで呼んだのです。
しかし、晶子はこれに黙ってはいませんでした。
彼女は「ひらきぶみ」という詩を発表し、「詩は真実の心を歌うものでなければ意味がない」と反論。
彼女は、自分の詩が弟を思う純粋な感情から生まれたものであり、国家のために命を捧げることが当然とされる風潮を批判したのです。
この姿勢は、彼女が詩人として一貫して持っていた「正直な気持ちを詠むこと」への信念を強く表していました。
その後、晶子は戦争賛美の詩も詠むようになり、彼女の立場は複雑なものになっていきました。
第一次世界大戦の際には、戦争を支持する歌を詠み、さらに満州事変や第二次世界大戦が始まると、戦争を美化するような詩を多く発表するようになります。
特に、四男が海軍大尉として従軍する際には「たけく戦え」と戦いを鼓舞する詩を詠んでいます。
こうした一連の作品を見ると、晶子の心情には時代の流れや個人的な背景から、次第に変化があったことが感じ取れます。
与謝野晶子の生涯は、戦争と詩、国家と個人の葛藤に満ちたものでした。
彼女は一貫して自分の気持ちに忠実に生き、詩を通して社会に対して強いメッセージを送り続けました。
たとえ「非国民」と批判されようとも、自分の詩を信じ、自らの信念を曲げることなく詠み続けた姿は、今も多くの人々に影響を与えています。
まとめ
与謝野晶子は、弟を思い、戦争に反対する詩を発表した晶子は、当時の日本社会の厳しい風潮に逆らい、自分の真実を歌い続けました。
後に戦争を賛美する詩も詠んだ彼女ですが、その一貫性のなさこそが、彼女の葛藤や時代背景を反映しているとも言えます。
時代に翻弄されながらも、自分の詩の価値を信じ続けた晶子の人生は、現代の私たちにとっても多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。
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