日本初の歌う女優・整形女優「松井須磨子」一時代を築いた壮絶な短い人生

日本初の歌う女優・整形女優「松井須磨子」一時代を築いた壮絶な短い人生

松井須磨子は、日本の近代演劇を語る上で欠かせない存在であり、「歌う女優」として一世を風靡した人物です。

しかし、彼女の人生は華やかさの裏に数々の苦悩と波乱が隠されていました。

今回は、松井須磨子の壮絶な人生に迫りたいと思います。

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女優への道を切り開くための壮絶な決意

松井須磨子(本名:小林正子)は、1886年に長野県で生まれ、幼少期からさまざまな苦難を経験します。

養子先の父、実父を立て続けに亡くし、姉を頼りに上京。

裁縫学校に通いながらも、何か平凡ではない人生を送りたいという思いが募り、女優を目指すことを決意します。

しかし、女優を志す彼女に立ちはだかったのは、容姿への厳しい評価でした。

当時、女優に求められたのは美貌。

そして松井須磨子は、鼻が低く平坦な顔立ちを理由に、俳優養成学校への入学を拒否されてしまいます。

ここで諦めなかった彼女が取った行動は、なんと美容整形手術でした。

明治時代、まだ珍しかった美容整形の道を選び、鼻筋に蝋を注入する「隆鼻術」を受けたのです。

これはまさに、彼女の女優としての夢を叶えるための壮絶な決意だったと言えるでしょう。

舞台の成功と恋のスキャンダル

整形手術の成功をきっかけに、松井須磨子は俳優養成学校に入学。

演技の勉強に打ち込み、1909年には坪内逍遥の「文芸協会演劇研究所」に入門します。

そこでの努力が実を結び、彼女は1911年に「ハムレット」のオフィリア役に抜擢され、デビューを果たしました。

この公演は大成功し、彼女は一躍注目の女優となりました。

そして同年、ノラ役で出演した「人形の家」がさらに彼女の名を広めます。

この舞台の演出を手掛けたのが、文芸評論家であり演出家の「島村抱月」です。

二人は舞台を通じて急接近し、やがて恋愛関係に発展します。

しかし、抱月には妻子がいたため、このスキャンダルは大きな波紋を呼び、彼女は文芸協会を去ることを余儀なくされました。

日本初の「歌う女優」としての大成功

スキャンダルで苦境に立たされるも、松井須磨子は島村抱月と共に新しい劇団「芸術座」を設立します。

そして、トルストイ原作の「復活」で彼女は大成功を収めます。

特に劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒットし、日本初の「歌う女優」としての地位を確立しました。

この曲はレコードが20,000枚以上売れたと言われ、当時としては驚異的な売り上げでした。

その後も彼女は次々とヒットを飛ばし、舞台でも多くの成功を収めていきました。

しかし、その華やかなキャリアの裏には、依然として美容整形による身体的な苦しみが続いていました。

蝋を注入した鼻は体温で溶け、時折形が崩れてしまうことも…。

その度に彼女は自らの手で鼻を押さえ形を整えるという苦悩を抱えながらも、舞台に立ち続けました。

恋人・島村抱月の死と松井須磨子の悲劇的な最期

彼女にとって、島村抱月は演劇のパートナーであり、恋人でもありました。

しかし1918年、島村抱月がスペイン風邪で亡くなったことが、松井須磨子の人生に大きな影を落とします。

彼女はこの喪失に耐えきれず、2ヶ月後の1919年、舞台裏の道具部屋で首を吊って自らの命を絶ったのです。

32歳という若さで彼女の人生は幕を閉じたのです。

松井須磨子は、抱月の墓に一緒に埋葬されることを望んでいましたが、抱月の妻にその願いを拒否され、彼女の墓は故郷である長野県に建てられました。

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壮絶な人生を生き抜いた松井須磨子

松井須磨子の人生は、まさに波乱万丈でした。

女優になるという強い意志で美容整形を決意し、厳しい時代の中で成功を掴んだ彼女でしたが、スキャンダルや身体的苦痛、そして最愛の人の死という数々の試練に耐えながら、彼女は最後まで女優として生き続けました。

彼女が「歌う女優」として日本の演劇史に刻んだ功績は、今も色褪せることなく残っています。

※画像|Wikipedia より引用

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