高橋お伝、彼女は明治時代に「毒婦」として知られ、今でもその名前が語り継がれています。
犯罪者として悪名を轟かせましたが、実はその背後には複雑な人生がありました。
彼女の物語は、単なる悪女の話ではなく、時代に翻弄され、男に利用され続けた女性の壮絶な生き様でもあるのです。
美貌の持ち主、高橋お伝の魅力と不幸
お伝は、その美しさでも有名でした。
透き通るような白い肌、凛とした美貌で、多くの男性を魅了したと言われています。
しかし、この美しさは彼女に幸福をもたらすどころか、むしろ不幸を招くことになります。
慶応2年12月(1867年1月)高橋浪之助と結婚するも、明治2年(1869)夫・波之助は病に倒れ、当時不治の病だったハンセン病にかかってしまったのです。
その頃、看病のため横浜へ移り住みます。
お伝は、治療費を稼ぐため娼婦しながら、献身的に看病をしましたが、病状は悪化し、ついには亡くなってしまいます。
この頃から、彼女の人生は急激に転落していくのです。
まもなくして、小川市太郎と恋仲になります。
明治9年(1876年)市太郎と同棲生活を始めるも、借金に追われて生活はどんどん苦しくなっていきます。
市太郎は仕事に就かず、酒と博打に明け暮れるダメ男でしたが、お伝は市太郎に尽くしました。
借金が嵩み、困ったお伝は、古物商を営んでいた知人の後藤吉蔵に借金の用立てを相談しに行ったのです。
この出来事がお伝の人生そのものを狂わせてしまいます。
悲劇の結末、カミソリでの殺人
お伝の人生の転機は、借金を頼んだ男性、吉蔵との出会いです。
彼女は金策に困り、吉蔵に借金を頼むものの、関係はこじれていきます。
吉蔵は「一晩付き合ってくれたらな」と身体の関係を迫ります。
借金の用立てをしてくれると思ったお伝は、ためらうことなく承諾しました。
翌朝、お伝は吉蔵に借金をお願いすると、吉蔵は態度を変え、「そんな大金などあるもんか」「そんなこと言った?」と言い出したのです。
猛烈な怒りに襲われたお伝は、吉蔵の喉を剃刀で掻き切って殺害。
お伝は遺体を布団で覆い、財布の中から十一円を奪うと、偽装工作のためなのか、このような書き置きをしました。
「此のものに五年いぜん姉をころされ、其のうへ私までひどうのふるまいをうけ候へども、せんかたなく候まま今日までむねんの月日をくらし、只今姉のかたきをうち候なり。今一度姉のはかまいりいたし、その上すみやかになのり出候。けしてにげかくれるひきょうはこれなく候。此のむね御たむろへ御とどけ下され候。 まつ」
その後、田中甚三郎に10円、近所のお菊という女性に1円を返済しています。
しかし、借金を返済した翌日にお伝は逮捕されます。
裁判では、彼女の主張と証拠が食い違い、最終的に彼女は有罪となり、死刑が宣告されました。
彼女は自分の行動を正当化しようとしますが、世間からは「毒婦」として見なされ、厳しい目で見られることになりました。
斬首刑を前に見せた人間味
斬首刑の日、お伝は目隠しをされ、刑場に向かいます。
彼女は冷静な態度を装っていたものの、刑が執行される直前になって取り乱します。
最後には、愛人の名前を叫びながら狂乱し、処刑人すら苦戦するほどの抵抗を見せたと伝えられています。
この姿は、多くの人々に「恐怖」と「哀れみ」の両方を感じさせました。
彼女の美しさや魅力は、人々を惹きつける魔力として語られる一方で、彼女自身がその魅力に苦しんだと言えるでしょう。
結局、彼女は男たちに翻弄され続け、自分の力で幸せを掴むことができなかったのです。
「毒婦」としてのイメージが定着する
お伝の処刑後、彼女の人生は新聞や草双紙(当時の大衆向け小説)で「毒婦」として語り継がれました。
多くの作品で彼女は、欲望に溺れ、男性を次々と利用し、犯罪を犯す悪女として描かれています。
特に1925年と1935年に映画化された『お伝地獄』では、彼女の妖艶な姿が大いに話題となりました。
しかし、地元群馬では違った評価も存在します。
彼女は最初は真面目で貞淑な女性であり、夫の治療に尽くす一心で上京したというのです。
彼女が「毒婦」として語られる背景には、時代の変革期に生きた女性として、彼女の生き方が人々に受け入れられなかったことも影響しているかもしれません。
この時、お伝は29歳でした。
高橋お伝を巡る謎の後日談
お伝の死後、その遺体は解剖され、彼女の性器がアルコール漬けにされて標本にされたという猟奇的な話も残っています。
この標本は、陸軍病院や大学に保管されていたとされ、戦後には展示されたこともあると言われています。
また、彼女の首についても、愛人・市太郎が遺骨を弔うために探し求めたという話が残っています。
市太郎は、彼女の首を見つけた際に涙を流し、彼女を弔ったと伝えられています。
彼女が「毒婦」として語られる一方で、こうしたエピソードからは、彼女が単なる悪女ではなく、愛され、苦しんだ女性であったことが垣間見えるのです。
※画像|明治ガイド @meiji.bakumatsu.org より引用
まとめ
高橋お伝は、美貌が故に不幸を背負い、最終的には犯罪者としてその命を終えることになりましたが、彼女の背後には一人の女性としての苦しみと悲しみがあったことは間違いありません。
彼女が「毒婦」として語り継がれた背景には、当時の社会が新しい女性像を受け入れられなかったことや、メディアによる誇張が大きく影響しています。
現代の私たちが彼女の人生を振り返る時、単なる悪女としてではなく、一人の人間としての哀しさを感じるのではないでしょうか。
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