お鯉こと安藤照子は、まさに波乱万丈な人生を歩んだ女性です。
その人生を深く知ると、彼女の強さや魅力に心を動かされることでしょう。
お鯉「安藤照子」壮絶な生涯
安藤照子は1880年、東京・四谷にある裕福な漆器問屋に生まれました。
しかし、実家は没落し、彼女は6歳で新宿の引手茶屋を営む安藤家に養子として迎えられます。
幼い頃から逆境に直面した照子でしたが、それは彼女の人生における困難の始まりに過ぎませんでした。
14歳になると、安藤家もまた経済的に苦しくなり、照子は新橋の芸者として花柳界に足を踏み入れます。
当時の芸者はただの娯楽提供者ではなく、知識や教養、そして気風の良さが求められる厳しい世界でした。
照子はその中で美しさだけでなく、気っぷの良さでも評判を集め、瞬く間に新橋一の芸者として名を馳せました。
そんな彼女に人生の転機が訪れます。
一度は歌舞伎役者・市村羽左衛門と結婚したものの、すぐに離婚し再び芸者の道に戻った照子は、元老・山県有朋の紹介により、政治家桂太郎の愛妾となります。
この時、照子は桂に対して「玩具にされるのなら嫌です。芸者だって人間です。生涯のことを考えて下さるのでなければ御免を蒙ります」と告げ、彼の心を掴んだと言われています。
その時代の女性としては非常に自立した姿勢で、これが桂の心を強く打ったのかもしれません。
桂太郎といえば、日清戦争や日露戦争での手腕が光り、3度にわたって内閣総理大臣を務めた明治の元勲です。
そんな桂を支え、彼の心身の回復に大きく貢献したのがお鯉でした。
特に日露戦争時には、桂の心労が激しく、周囲は彼にリラックスできる環境を提供しようとします。
そこで選ばれたのが、当時の花柳界で一番の評判を得ていたお鯉だったのです。
彼女が桂と暮らし始めると、彼の疲労は次第に癒され、日露戦争の勝利にも影響を与えたとも言われています。
しかし、戦争終結後、世論は講和条約に不満を持ち、日比谷焼き討ち事件が勃発します。
「桂とともにお鯉を殺せ」といった怒号が飛び交い、暴徒が赤坂にある桂邸を襲撃しました。
お鯉は家にひそんで身を守り、植木屋の若い職人の助けを借りて辛うじて難を逃れました。
その後も暴動は続き、20日間にわたり閉じこもり生活を強いられることになりますが、彼女は最後まで耐え抜きました。
桂太郎が1913年に亡くなると、お鯉の生活も一変。
彼女は銀座で「カフェー・ナショナル」を経営するなど、自立した女性としての道を歩み始めます。
しかし、1934年には「帝人事件」に連座し、偽証罪で有罪判決を受けることに…。
時代の波に翻弄され続けたお鯉ですが、この時も気っぷの良さは変わらず、出家して「妙照尼」と名乗り、目黒にある羅漢寺で尼僧として余生を送りました。
お鯉の最後は静かで、1948年に69歳でこの世を去ります。
彼女が暮らした羅漢寺には「お鯉観音」という観音像が残されており、今でもその名前が語り継がれています。
まとめ
お鯉こと安藤照子の人生は、時代に翻弄されながらも自立した女性の姿を体現したものでした。
芸者としての華やかな生活から、総理大臣の愛妾、そして事件に巻き込まれても強く生き抜き、最後は尼僧として静かな余生を送った彼女。
その波乱万丈な生涯は、今の私たちにも多くのことを教えてくれます。
現代では考えられないような逆境を乗り越えた彼女の生き方には、学ぶべき点が多いと言えるでしょう。
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