「グリコ・森永事件」を覚えていますか?
昭和時代、日本中を震撼させたこの未解決事件は、企業を脅迫し、食品の安全性に対する不安を巻き起こしました。
知っている人にとっては、忘れられない衝撃的な出来事でしょうし、知らない世代にとっては驚くべき未解決事件かもしれません。
昭和最大の未解決事件、グリコ・森永事件とは
1984年から1985年にかけて、日本で発生した「グリコ・森永事件」は、当時の人々に強い不安をもたらした未解決の企業脅迫事件です。
この事件は「かい人21面相」と名乗る犯人グループによる大手食品メーカーへの一連の脅迫行為から始まりました。
特に江崎グリコや森永製菓がターゲットとなり「食品に毒を混入した」との脅迫や巨額の身代金要求が行われました。
日本中が注目したこの事件は、なぜ今もなお謎のままなのでしょうか?
江崎グリコ社長の誘拐
事件は1984年3月、江崎グリコの社長、江崎勝久氏が自宅から拉致されるという衝撃的な出来事から始まります。
1984年3月18日21時ごろ、崎グリコ社長江崎勝久氏の実母宅に拳銃と空気銃を構えた2人の男が勝手口を破って押し入り、同女を縛り上げて社長宅の合鍵を奪いました。
2人組はそのまま隣家の社長宅の勝手口から侵入、社長夫人と長女を襲い、2人を後ろ手に縛って脇のトイレに閉じ込めました。
その後、2人の男は浴室に侵入、長男、次女と入浴中だった社長を銃で脅し、全裸のまま拉致(略取)したのです。
3月19日1時ごろ、大阪府高槻市の江崎グリコ取締役宅に犯人の男から指定の場所に来るよう電話があり、取締役が指定場所に向かうと、社長の身代金として現金10億円と金塊100キログラムを要求する脅迫状がありました。
3月21日14時30分ごろ、日本国有鉄道(国鉄、現在のJRグループ)職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって江崎氏が保護されました。
江崎氏は、大阪府茨木市の安威川沿いにある治水組合の水防倉庫から自力で抜け出し、対岸に見えた摂津市の大阪貨物ターミナル駅構内へ駆け込み、居合わせた作業員達によって無事に保護されたのです。
この事件は日本中に大きな話題を呼び、ここから「グリコ・森永事件」が幕を開けます。
かい人21面相の脅迫
その後、犯人は「かい人21面相」と名乗り、次々と脅迫状を送りつけてきました。
江戸川乱歩の「怪人二十面相」を思わせるネーミングが当時の人々の注目を集め、犯人は警察やマスコミを挑発するようなメッセージを発信し続けます。
1984年4月2日、江崎宅に差出人不明の脅迫状が届き、現金6000万円の要求と、脅迫状には塩酸入りの目薬の容器が同封。
1984年4月10日、大阪府大阪市西淀川区の江崎グリコ本社で放火が発生。
1984年5月10日、4社の新聞社に、かい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」と文書が届き、さらに全国にばらまくと予告、「グリコを たべて はかばへ行こう」とまで書かれていた。
1984年5月31日、江崎グリコに3億円を要求する脅迫状。
1984年6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状、内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」。
1984年9月12日、大阪府大阪市の森永製菓関西販売本部に届いた脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、青酸入りの菓子が同封。
1984年10月7日から10月13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県のスーパーやコンビニから不審な森永製品が相次いで発見、「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼った森永製品のお菓子の中に青酸ソーダが混入されていました。
1984年11月7日、ハウス食品グループ本社の総務部長宅に脅迫状には現金1億円を要求する内容が届く。
その他にも、不二家、駿河屋が脅迫されました。
謎の「キツネ目の男」
捜査が進む中、犯人とみられる「キツネ目の男」の目撃情報が浮上し、彼の特徴が事件解決の鍵を握るとされました。
警察は大規模な捜査を展開し、関西を中心に延べ100万人以上の警察官を動員。
しかし、犯人は非常に巧妙で、最終的に決定的な証拠をつかむことができず、逮捕には至りませんでした。
この「キツネ目の男」は、今でも事件の謎として語られています。
事件の終息と時効
1985年8月、犯人は突如として活動を停止します。
それまでに行われた脅迫や犯行声明はパタリと止み、犯人グループは完全に姿を消したのです。
その後も警察は事件解決に向けた努力を続けましたが、ついに犯人は逮捕されることなく、2000年に時効を迎えました。
結局、犯人の正体は不明のままで、事件は未解決のまま幕を閉じました。
まとめ
「グリコ・森永事件」は、日本の犯罪史において最も謎めいた未解決事件の一つとして記憶されています。
犯人が名乗った「かい人21面相」という名前や、食品に毒物を混入したという脅迫のインパクトは、当時の日本社会に深い爪痕を残しました。
事件の影響により、食品の安全性が強く意識されるようになり、消費者保護の観点からの取り組みが強化されました。
しかし、犯人がついに捕まらなかったことは、多くの人々にとって未だに大きな謎であり、昭和時代のミステリー事件として語り継がれています。
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