徳川幕府最後の将軍として知られる「徳川慶喜」。
彼が大政奉還を行い、260年以上続いた江戸幕府に終止符を打ったことは歴史の教科書でもよく知られていますが、明治以降、彼がどんな人生を送っていたのかはあまり知られていませんよね?
実は、彼の晩年は意外にも趣味に没頭し、あの渋沢栄一との交流も続けていたんです。
今回は、そんな徳川慶喜の明治以降の生活について掘り下げていきます。
徳川幕府最後の将軍「徳川慶喜」の生涯
大政奉還からの謹慎生活…そして趣味の世界へ
慶喜が大政奉還を行ったのは慶応3年(1867年)。これによって江戸幕府は正式に終焉を迎えました。
しかし、慶喜自身はその後も日本を守ろうと必死に行動していたんです。
鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北し、江戸に戻った後、彼は上野の寛永寺で謹慎生活に入りました。
それから間もなく、彼は静岡へ移り、そこでさらに謹慎生活を送ることになります。
幕府の長として国を守るために奮闘していた姿とは打って変わって、静岡での彼の生活はとても静かで、政治的な野心を感じさせないものでした。
この頃から慶喜は、趣味に没頭するようになります。
釣り、投網、狩猟、絵画、写真撮影…とにかく多彩な趣味を持っていたんです。
特に写真撮影は、彼の生涯を通じて続けたもので、彼が撮影した写真は今でも保存されています。
カメラを手に外に出かけ、風景や日常を記録するのが彼の日課だったそうです。
まさか「最後の将軍」がカメラを趣味にしていたなんて、ちょっと意外じゃないですか?
慶喜は、還暦になった頃に、東京へ移住します。
1900年(明治33年)に明治維新の功労者に与えられる「麝香間祗候」に叙任、1902年(明治35年)、66歳で華族に叙せられて、「公爵」を授爵、その後、貴族院議員も務めました。
1908年(明治41年)には、明治国家の功労者として伊藤博文の推薦で、「勲一等旭日大綬章」を授与され、のちに大政奉還の功績が称えられました。
渋沢栄一との友情
ここで重要な人物がもう一人登場します。
それが「日本資本主義の父」として知られる渋沢栄一。
渋沢と慶喜の関係はとても深く、渋沢は若い頃から慶喜に仕え、幕臣として彼を支えていました。
大政奉還が行われたとき、渋沢はヨーロッパに滞在していたんですが、帰国後も静岡で慶喜と親密に過ごします。
渋沢栄一が書いた『徳川慶喜公伝』は、主君である慶喜の名誉を回復し、彼の功績を称えるためのもの。
この書籍には、渋沢がどれだけ慶喜を尊敬し、彼との交流を大切にしていたかが描かれています。
政治の世界を離れた後も、二人は生涯にわたって友情を育んでいたんです。
慶喜は表向きには隠居していましたが、渋沢との交流を通じて、心の支えを得ていたのかもしれませんね。
趣味人としての晩年
静岡から東京に移った後、彼はさらに趣味に打ち込みます。
また、彼は大の自転車好きで、洋式の自転車でサイクリングを楽しんでいたことも記録されています。
徳川将軍としての厳格なイメージとはかけ離れた、まさに趣味人としての人生を満喫していたんですね。
さらに、1902年には公爵に叙せられ、正式に「華族」として復権した後は、天皇家との関係も深まり、慶喜は明治天皇とも親しい交流を持つようになります。
かつての将軍が、明治天皇と親しく過ごすというのも、歴史の面白い転換ですよね。
長寿を全うし、歴史に名を残す
慶喜は1913年、77歳でその生涯を閉じました。
徳川将軍の中で最も長生きした人物であり、彼の健康管理の徹底ぶりも有名です。
食生活にこだわり、健康に配慮した日々を送っていたことが、長寿の秘訣だったのでしょう。
幕末から明治、大正と、激動の時代を生き抜いた慶喜の人生は、まさに歴史そのもの。
彼の人生は、「幕府を終わらせた将軍」として語られるだけではなく、趣味に生き、友人を大切にした人物としても記憶されています。
まとめ
徳川慶喜の明治以降の生活は、意外にも穏やかで趣味に満ちたものでした。
渋沢栄一との深い友情も、彼の人生に大きな影響を与えていたでしょう。
最後の将軍として、激動の時代を乗り越えた慶喜は、単なる政治家や武将としてだけでなく、趣味人としての顔を持ち、長く愛される人物として歴史に名を刻みました。
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