新しい女宣言「平塚らいてう」女性の地位向上と権利獲得のために尽力した壮絶な人生

新しい女宣言「平塚らいてう」女性の地位向上と権利獲得のために尽力した壮絶な人生

平塚らいてう、彼女がどれほど壮絶な人生を歩んできたかは、知る人ぞ知るといったところです。

「新しい女」として大正時代に名を馳せ、女性解放運動の立役者とされる彼女。

しかしその背後には、現代の私たちが想像する以上に過酷で、挑戦に満ちた人生がありました。

今回は、そんな「平塚らいてう」の人生を紹介します。

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「原始、女性は太陽であった」──『青鞜』創刊とらいてうの覚醒

「原始、女性は太陽であった」──『青鞜』創刊とらいてうの覚醒
Via|Wikipedia @wikipedia.org (引用)

1911年9月、当時25歳の平塚らいてうは、日本で初めての女性による文芸誌『青鞜(せいとう)』を創刊しました。

創刊号に寄せた彼女の言葉「原始、女性は太陽であった」は、女性の権利を訴える象徴的なフレーズとして広く知られています。

らいてうは、男性に依存する存在ではなく、女性こそが自ら輝く存在であるべきだという強いメッセージを発信しました。

しかし、この当時の日本は、まだまだ女性が表に立つことが許されない時代。

そんな中で、女性だけで雑誌を作り、女性の権利について声を上げたらいてうの行動は、一部では称賛されましたが、反対に多くの男性からは強い批判を受けます。

なんと、平塚家に石が投げ込まれることさえあったとか…。

それでも、らいてうは決してひるむことなく、女性の地位向上のために戦い続けました。

塩原事件──心中未遂から一躍スキャンダルへ

平塚らいてうの名前が世に広まったきっかけは、彼女の思想や活動ではなく、スキャンダルとも言える「塩原事件」でした。

22歳の時、文学者森田草平との心中未遂事件で注目を浴びたのです。

明治41年(1908年)3月21日、らいてうが通っていた浅草の海禅寺に森田草平が訪ねてきた。

森田草平が向かった先は、蔵前の鉄砲屋で、ピストルを注文したと言います。

らいてうは自伝の中で、「人は死ぬ瞬間が最も美しい、私は芸術家だ、詩人だ、美の使途だ、あなたを殺す、そして最も美しいあなたを冷静に観ようと思う」と、書いてあったと言います。

その後、らいてうは家出の準備をし、森田と共に栃木県の雪山で彷徨っている中、警察に救助されました。

この事件は当時のメディアに大きく取り上げられ、一躍世間の注目を集めました。

しかし、女性がこんな事件に巻き込まれるなんて、当時の道徳観からすると衝撃的なものでした。

そのため、彼女は「スキャンダラスな女性」というレッテルを貼られ、日本女子大学の名簿からも削除されるほどの影響を受けます。

とはいえ、らいてうはこの出来事をきっかけに、より一層自分自身の生き方を見つめ直すようになります。

この経験から、彼女は女性の解放と権利獲得のために一生を捧げる決意を固めたのかもしれません。

自由恋愛と共同生活──結婚制度への挑戦

らいてうは、当時の結婚制度にも疑問を抱いていました。

大正元年(1912年)、彼女は5歳年下の美術学生、奥村博史と出会い、激しい恋に落ちます。

しかし、二人が選んだのは当時の日本では非常に珍しい「事実婚」、つまり入籍せずに共同生活を送るという形でした。

その背景には、らいてうが抱いていた強い結婚制度への反発がありました。

彼女は、結婚は単に男女が「家」として結びつく制度ではなく、個々の自由な意志によるものであるべきだと考えていたのです。

事実、彼女は「家制度」から逃れ、奥村との子どもを自身の戸籍に入れるという選択をしています。

らいてうは、この「共同生活」をあえて公にし、社会に挑戦する姿勢を見せました。

しかし、これに対する社会の風当たりは強く、家計が苦しい中でも二人は世間からの批判に耐えながら愛を貫きました。

母性保護論争──与謝野晶子との激しい対立

らいてうの女性解放運動の中でも、特に注目すべきは「母性保護論争」です。

これは、彼女と詩人・与謝野晶子の間で繰り広げられた激しい論争です。

与謝野晶子は、国家に母性保護を求めることは依存主義だと批判しましたが、らいてうは、母親が子どもを育てるためには国家の支援が必要であり、それこそが女性の自由と独立を守る方法だと主張しました。

この論争は、当時の社会における女性の立場や役割をめぐる重要な議論となり、多くの人々が耳を傾けるきっかけとなりました。

らいてうの主張は、現代においてもなお、母親としての権利や女性の労働条件改善の問題に直結していると言えます。

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戦後の平和運動──女性運動家から反戦運動家へ

第二次世界大戦後、らいてうは女性運動だけでなく、平和運動にも積極的に関わるようになります。

戦後、日本が再び軍備を持つことに反対し、1950年代には「再軍備反対婦人委員会」を結成しました。

また、日米安全保障条約にも反対し、アメリカのダレス特使に対して「日本女性の平和への要望書」を提出するなど、積極的に平和を訴える活動を行いました。

らいてうは、女性としての権利だけでなく、人間としての平和と自由を追求し続けたのです。

まとめ

平塚らいてうの人生は、まさに「壮絶」という言葉がふさわしいものです。

彼女は、女性の権利向上を訴え、常に自分の信念を貫き通しました。時にはスキャンダルに巻き込まれ、世間からの批判にもさらされましたが、彼女は決して諦めることなく、自分の道を歩み続けました。

彼女の行動は、現代の私たちに多くの示唆を与えてくれます。

女性が自由に生き、自分自身の意志で道を選ぶことができる社会は、平塚らいてうのような先駆者たちの努力によって築かれてきたのです。

彼女の生涯を通して、私たちは改めて女性の権利や社会のあり方について考える機会を得られます。

らいてうが発した「原始、女性は太陽であった」という言葉は、今でも私たちの心に響き続けています。

※画像|Wikipedia (引用)

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