幕末の戊辰戦争の一部である「会津戦争」で命を落とした女性たち。
歴史の裏に隠れた「女性たち」の運命は、多くの人が知らない壮絶なものです。
彼女たちがどれほどの覚悟をもってその瞬間に臨んだ「会津戦争」を紹介します。
会津戦争で女性たちが抱えた「覚悟」
1867年11月、大政奉還が行われ徳川慶喜が政権を返上しましたが、幕府の権力はまだ強大で、倒幕派の薩摩藩や長州藩が新政府樹立を目指しました。
1868年1月の鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。
旧幕府軍は兵力で有利でしたが、薩摩軍の最新兵器に対抗できず惨敗します。
この戦いを機に江戸城の無血開城が実現しましたが、会津藩は新政府軍との対立を深め、会津戦争へと発展しました。
このとき、会津藩の女性たちはただ待つだけの存在ではなく、むしろ家族や故郷を守るため、戦場で薙刀を振るい、時には命を絶つ覚悟を持っていたのです。
家老である西郷頼母(さいごうたのも)の一家がその象徴的な存在でした。
なぜ「死」を選ばなければならなかったのか?
会津戦争は1868年、白河小峰城での戦闘から始まり、最終的に会津若松城での籠城戦に至ります。
新政府軍の猛攻を受けた会津藩は次第に追い詰められ、少年兵の白虎隊を含む多くの人々が命を落としました。
松平容保も降伏し、戦いは終結しましたが、家老やその家族を含む多くの人々が自害を選んだのです。
ここで疑問に思うのは、「なぜ彼女たちは死を選ばなければならなかったのか?」ということです。
背景には、新政府軍が捕虜となった女性たちに対して過酷な扱いをしたという噂がありました。
「辱められた後に殺されるくらいなら、自分の意志で死を選びたい」という思いが彼女たちを突き動かしたのでしょう。
さらに、武士の家系としての誇りも大きな要因でした。
女性たちはただの「守られる存在」ではなく、家族や藩のために戦う「一員」としての責務を果たそうとしたのです。
この時代の価値観が、彼女たちの行動を形作っていました。
- 西郷家の集団自決
西郷頼母の一族21人は「足手まといになる」という考えから、自ら命を絶つことを選びました。
妻の千重子は、義母や義妹とともに、幼い娘たちを手にかけた後、自身も命を絶つという壮絶な選択をしました。
千恵子は辞世の句 「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬふしは ありとこそきけ」を遺し、自らの喉を突いたと伝えられています。 - 中野家の悲劇
会津藩士であった中野真之丞の一家も同様の運命をたどります。
妻やすこは、夫が戦場に出た後、年老いた両親と5人の子どもたちを殺害し、最後に家に火を放ち井戸に身を投げました。 - 中野竹子率いる女性部隊
中野竹子らによる女性部隊「婦人決死隊」は、なぎなたを手に新政府軍と戦います。
竹子は戦闘中に撃たれ命を落としましたが、妹の優子が敵に捕まらないよう竹子の首を守りました。
女性たちは命を賭して戦い、誇りを守り抜きました。
会津藩では他にも多くの女性や子どもが自害し、その数は233人に上ると記録されています。
一部は新政府軍の手による最期を遂げましたが、それでも誇りを守り抜こうとする姿勢が感じられます。
会津城下の女性たちの運命
また、会津若松城に籠城していた女性たちの生活も壮絶なものでした。
砲弾が飛び交う中、彼女たちは弾薬の運搬や負傷者の手当てなど、戦場を支える役割を果たしていました。
戦いが激化する中、女性や子どもたちの間にも次第に「籠城戦を続けることは無理だ」という声が広がります。
それでも、彼女たちは最後まで城を守り抜こうと必死でした。
ある日、城内に砲弾が飛び込み、火災が発生。
女性たちは水を運び、火を消そうと奔走します。
その姿は、まさに「戦う女性」そのものでした。
会津戦争は、新政府軍の勝利によって終結しましたが、その過程で多くの女性たちが命を落としました。
女性たちが命を懸けて守ったものは何だったのでしょうか。
それは「家族の誇り」「藩の未来」そして「彼女たち自身の尊厳」だったのではないでしょうか…。
まとめ
会津戦争は、女性や子ども、老人といった非戦闘員にまで多大な犠牲を強いた戦争でした。
その中でも女性たちは、自らの命を犠牲にしつつ、誇りと家族、藩のために行動しました。
このような悲劇を通じて、戦争の残酷さと時代の変化に翻弄された人々の姿が浮き彫りになります。
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