美しさで人生が狂う、そんな話が実際にあったのをご存じですか?
今回は、日本初のミスコンで優勝しながらも、その美貌が原因で学校を退学に追い込まれた明治の美女「末弘ヒロ子」の数奇な人生。
明治時代の女性が直面した社会の厳しさや家族との葛藤を浮き彫りにしています。
日本初のミスコン優勝者「末弘ヒロ子」の人生
現代では、ミスコンに優勝すると華々しいキャリアのスタートが約束されるかのようなイメージがあります。
しかし、時代が違えば話もまったく違うもの。
特に、明治時代に日本で初めてミスコンが行われたとき、その栄光が一人の若い女性の人生に思いもよらぬ影響を与えたのです。
その女性こそ「末弘ヒロ子」。
ヒロ子がミスコンに参加したのは、1907年に時事新報が主催した「美人写真コンテスト」でした。
総額3千円相当(約100万円)の賞品があり、約7千名もの応募がありました。
実は、この応募はヒロ子本人の意思ではなく、彼女の義兄である江崎清によるものでした。
彼は写真家であり、ヒロ子の美しさを誇示したかったのか、もしくはコンテストでの名声を求めたのかもしれませんが、彼女自身はこの応募に対して全く乗り気ではありませんでした。
ヒロ子は当時まだ16歳。
学習院女学部の中等部に通う少女でしたが、その美貌は周囲を驚かせるほどのものでしたが、彼女は控えめで、外見に過剰な注目を浴びることに対して非常に繊細な感性を持っていました。
義兄が無断で彼女の写真をコンテストに送り、優勝「日本一の美人」に選ばれたことで、ヒロ子の生活は一変します。
優勝が決まった瞬間、彼女は日本中で注目を浴びる存在となり、彼女の通う学習院にもそのニュースが伝わります。
明治時代、特に学習院のような名門学校では、女性の理想像は「良妻賢母」であり、華やかなミスコン優勝という出来事は学校の方針と相反するものでした。
そのため、学習院院長は「乃木希典」は、ヒロ子を諭旨退学処分にしました。
彼女の優勝は、学校にとって「虚栄心に駆られた行動」として受け止められたのです。
ヒロ子自身は、自ら応募したわけではないにもかかわらず、彼女の退学処分の決定は覆されることはありませんでした。
しかし、後に義兄が勝手に写真を応募した事実を知った乃木は、中退者となってしまったヒロ子の名誉を回復するために、良い縁談を紹介したのです。
野津道貫の長男・鎮之助は陸軍少佐で、前年に侯爵へ陞爵したばかりの父の跡を継いで貴族院議員になることが決まっていた「野津鎮之助」です。
ヒロ子は、結婚を通じて上流階級(華族)での生活を送ることになります。
彼女の婚約者は、既に名門の家系から決まっていた人物であったため、退学が結婚に悪影響を与えることはありませんでした。
結果的には、ヒロ子は上流階級の一員として、平穏な生活を送ることになります。
しかし、ここで考えさせられるのは、もし彼女の写真が応募されなければ、彼女の人生はどうなっていただろうかということです。
義兄の行動がなければ、ヒロ子は平凡な学業生活を送り、何事もなく結婚していたかもしれません。
一方で、彼女の美しさが世に知られることもなかったでしょう。
美しさや栄光が必ずしも幸福をもたらすとは限らないことを示しています。
まとめ
末弘ヒロ子の数奇な人生は、時代背景や社会の価値観がどれほど個人の運命に影響を与えるかを考えさせられるものでした。
彼女の美しさは一瞬の栄光をもたらしましたが、その代償は決して小さなものではありませんでした。
このような過去のエピソードを通じて、現代に生きる私たちも、自分の選択や行動がどのように人生を左右するのかを考えるきっかけになるのではないでしょうか。
あわせて読みたい|マタイク(mataiku)