日本の初代総理大臣として歴史に名を刻んだ伊藤博文。
彼は明治の日本を形作った偉大なリーダーとして知られていますが、実は「好色宰相」とまで呼ばれるほどの女性好きだったことも有名です。
そんな奔放な博文を支え続けたのが、彼の妻・伊藤梅子です。
彼女の生涯は、ただ夫を支えた賢夫人というだけでなく、波乱に満ちたものでした。
芸妓・小梅としての出会い
1848年、梅子は山口県で木田又兵衛の娘として生まれました。
家計の事情もあり、下関の置屋の養女となり若くして芸妓「小梅」として働き始めます。
彼女はその美貌だけでなく、聡明さでも評判を集めており、下関の料亭「林亀」で多くの人々に愛されていました。
そんな中で出会ったのが、当時帰国間もない伊藤博文です。
博文はすでに前妻のすみ子と結婚していましたが、小梅に強く惹かれます。
そして慶応2年(1866年)、博文はすみ子と離婚し、梅子と結婚しました。
梅子はここから、伊藤家の一員として歩み始めることになります。
芸者から日本初のファーストレディへ
梅子が伊藤博文と結婚したことで、彼女の人生は一気に大きく変わりました。
博文は明治時代のトップリーダーとして政界に君臨し、初代内閣総理大臣となるなど日本を牽引していきました。
それに伴い、梅子も日本初の「総理夫人」としての役割を果たすことになります。
梅子はただ美しいだけではなく、学ぶことに対して非常に意欲的な女性でした。
和歌を下田歌子に学び、さらには英語の勉強にも取り組み、明治16年(1883年)、鹿鳴館が開館すると、貴婦人達の中心となって活動します。
また、宮中の女性たちの服装改革にも貢献し、洋装の導入に尽力しました。
彼女のこうした活動は、当時の女性としては非常に先進的であり、周囲から「賢夫人」として称賛を集めていたのです。
伊藤博文の「好色宰相」ぶりとそれを支える梅子
博文は優れた政治家である一方で、女性関係では非常に奔放でした。
彼は「美しい芸者に酌をしてもらいながらの休息が一番」と公言しており、そのために多くの女性との関係を持っていたことでも知られています。
実際、芸者や茶屋の女性たちとの関わりは数え切れないほどで、時には両脇に女性を侍らせて寝ることもあったと言われています。
そんな博文を梅子は文句一つ言わずに夫を支え続けました。
ある日、伊藤のお気に入りの芸者に対して「御前様(博文)はとても忙しい方ですから、あなたが来て慰めてくださることが一番の息抜きです」と告げたと言われています。
梅子は「伊藤を支えるのは自分だけ」との強い自負を持ち、伊藤の他の女性との間に生まれた子供たちも分け隔てなく育てました。
この寛容さと慈愛から、梅子は「賢夫人」や「良妻賢母の鑑」として称賛されました。
このエピソードからもわかるように、梅子は夫を支えることに誇りを持っていたのでしょう。
夫の死を乗り越えた気丈な姿
しかし、1909年、運命の日が訪れます。
博文がハルビン駅で韓国の青年・安重根に暗殺されたのです。
この衝撃的なニュースは瞬く間に広まり、梅子もまたその知らせを受けました。
彼女は大きな動揺を見せず、涙ひとつ見せずに気丈に振る舞ったと言われています。
そして、自室で「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」という和歌を詠み、夫を偲んだのです。
梅子は博文の死後、しばらく娘の嫁ぎ先を転々とし、1924年にその生涯を閉じました。
彼女は夫に仕え、家族を守り、時には夫の浮気相手たちにも寛容に接するという、強さと優しさを併せ持った女性でした。
※画像|Wikipedia @wikipedia.org(引用)
まとめ
伊藤梅子の生涯は、芸者から日本初の総理夫人へと昇りつめ、波乱に満ちたものでした。
彼女は美しさだけでなく、学びに対する熱意や夫を支える強さを持っており、まさに「賢夫人」としての道を全うしました。
また、伊藤博文の浮気癖に対しても動じず、黙って支え続けた梅子の寛容さは、現代では考えられないほどのものだったでしょう。
彼女の存在は、単に「博文の妻」というだけでなく、明治日本を影で支えた大きな柱であり、その姿勢は今なお多くの人々に尊敬されるべきものです。
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