今や世界的ゲーム企業として知られる任天堂、日本で大ヒットしたファミリーコンピュータですが、アメリカでは「ファミコン」を名乗らず、「NES(Nintendo Entertainment System)」として、名前も外観も別物に生まれ変わって発売されました。
そこには、崩壊した市場を前にした任天堂の極めて現実的で冷静な戦略があったのです。
アメリカの家庭用ゲーム市場は崩壊状態

1980年代初頭のアメリカでは、家庭用ゲーム市場そのものが深刻な不信状態に陥っていました。
原因となったのが、いわゆるアタリショックで、当時市場を独占していたアタリは、品質管理を行わず内容の伴わないソフトを大量生産、パッケージと実際のゲーム内容がかけ離れた商品を氾濫、その結果、消費者は家庭用ゲームに失望し小売業者は売れ残った在庫を大量に抱え込むことになります。
有名な出来事で、売れ残りカートリッジを砂漠に埋めた事件は、当時の混乱を象徴しています。
この状況下では、ビデオゲームという言葉そのものが嫌われ、新しいゲーム機を売り込もうとするだけで門前払いされるのが当たり前だったと、当時任天堂アメリカの営業副社長だったBruce Lowry氏は振り返っています。
つまり任天堂は、市場が完全に崩壊した後という最悪のタイミングで、アメリカ進出を試みていたのです。
ファミコンは安っぽいおもちゃだった
日本では社会現象を巻き起こしたファミコンですが、アメリカの任天堂チームの目には、決して魅力的には映っていませんでした。
クリーム色の筐体、赤いボタン、いかにも玩具らしいデザイン、日本では親しみやすさとして受け入れられていましたが、アメリカでは「安っぽい」「子どものおもちゃ」という印象を強めてしまいます。
しかも当時のアメリカでは、玩具売り場=安物、ビデオゲーム=信用できない、という二重のマイナスイメージが存在していました。
このままファミコンを持ち込めば、売れない理由がすべて揃っている商品になってしまう、そこで任天堂は根本的な発想転換を行います。
それが、ゲーム機であることを隠すという大胆な戦略です。
名称はファミリーコンピュータではなく、NES(Nintendo Entertainment System)、デザインは玩具ではなく、VHSデッキのようなオーディオ機器風に変更、売り場も玩具売り場ではなく、家電・電子機器として扱われることを狙いました。
任天堂は、面白いゲームを売る前に、信用される箱を作る必要があったのです。
信頼を取り戻すための徹底した工夫
NESの成功は、デザイン変更だけではなく、アタリ時代の失敗を徹底的に研究し、同じ過ちを繰り返さないための仕組みを積み上げていきました。
象徴的なのが、ロボット「R.O.B.」の存在、ロボットはゲーム性としては決して優れたものではなく、社内でも動きが遅いと酷評されていましたが、結果的にR.O.B.は小売業者の関心を引き、売り場に入り込むための突破口となります。
また、銃型コントローラー「Light Gun」という名称が、主婦層に強く拒否されことで、名称を「Zapper」に変更、色もオレンジ系に変更すると、反応は一変し受け入れられるようになったといいます。
さらに、実際のゲーム画面に近いパッケージデザイン、任天堂品質保証シールの導入、低品質ソフトを排除するロックアウトチップ(10NES)、といった対策を重ね、「買っても裏切られない」という信頼を少しずつ積み上げたのです。
まとめ
米国版ファミコンが「NES」として生まれ変わったのは、単なる海外向け仕様変更ではなく、崩壊した市場で生き残るための極めて現実的な再設計でした。
任天堂はゲームの面白さを語る前に、言葉を選び、形を変え、売り場を変え、信頼を売ることを選んだその結果、NESはアメリカ家庭用ゲーム市場を復活させる存在となり、任天堂という名前そのものが、ゲームの代名詞として記憶されるようになりました。
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