1978年の沖縄で実際に行われたのが、通称「沖縄730(ナナ・サン・マル)」です。
本土復帰から6年、沖縄は戦後の名残だった右側通行から、本土と同じ左側通行へと戻り、たった一晩で沖縄の道路も人々の生活も歴史も大きく変わったのです。
なぜ沖縄は右側通行だったのか?
終戦前の沖縄では本土と同じく左側通行が採用されていました。
しかし1945年、アメリカ軍が占領すると「右側通行へ変更する」という指令が出され、道路は一気にアメリカ式へと変わります。
バスも右側にドアがあるアメリカ型車両が走り、標識や道路表示もアメリカのルールに合わせられていきました。
1972年の本土復帰後、すぐに左側通行へ戻すことは理論上可能でしたが、道路、信号、標識の配置、バス停、横断歩道、交通教育、実際には困難が伴いました。
さらに1975年の「沖縄海洋博」が決まっていたことから、復帰直後の変更は見送りとなりました。
しかし、日本は国際条約で「一国一交通方式」を遵守する義務があり、沖縄だけ右側通行という状態は長く維持できません。
このため、1978年7月30日を切り替え日とし、歴史的大作戦「沖縄730」が動き出しました。
一晩で完了せよ、前代未聞の8時間の工事
明日の朝には左側通行に!この無茶ともいえる大転換を実現させるため、沖縄全域で綿密な計画が立てられました。
信号機の位置と向きを全面変更、標識の付け替え、車線・中央線・横断歩道の描き直し、離島を含む全域で同時作業など、通常の工事で行えば数か月はかかるところを、わずか8時間で完了させなければなりませんでした。
そのため、沖縄では事前に新しい標識や路面表示を作っておき、カバーやテープで隠しておくという方式を採用し、切り替え当日の7月29日22時から翌30日6時までのあいだに、旧標識を覆い、新標識のカバーを外し、新しい車線ラインを一斉に露出させるという方法を決行しました。
特に大変だったのはバス車両の対応で、右側ドアのバスは左側通行では使用できないため、沖縄中のバスを右ハンドル+左側ドアの車両に総入れ替え、1000台以上の新車が急ピッチで導入され、一部の左ハンドル車は中国など海外へ渡りました。
当時、730のために導入されたバスの一部は、現在も「歴史遺産」として現役で走っています。
1978年7月30日午前6時、汽笛とサイレンが鳴り響き、沖縄の道路は一斉に左側通行へと生まれ変わりました。
この瞬間は、沖縄にとって「戦後が終わり、本土と同じルールで歩み出した日」として、多くの県民の記憶に刻まれています。
人間の習慣こそ最大の壁
道路を作り替えるだけでは、新しい交通方式は機能しません。
最も難しいのは、長年の習慣を持つ「人」の意識を切り替えることで、幼稚園から高校まで授業を返上して交通教育が行われました。
「車は左、人は右」という言葉を繰り返し唱えさせ、テレビでは30分番組の特集が組まれラジオでも連日放送、米軍関係者向けにも講習会が開かれ、県民総ぐるみの大キャンペーンとなりました。
それでも切り替え後の6週間で、軽微なものを含む事故は2000件近く発生したと記録されています。
しかし、致命的な事故はわずかで予想された大混乱は起きませんでした。
まとめ
沖縄730は、一夜で道路も車も生活もひっくり返した歴史的なプロジェクトでした。
混乱や事故はあったものの、わずか8時間で切り替えを成功させたこの大作戦は、世界でも例を見ない成功事例として評価されています。
730の記憶は今も沖縄の風景や人々の語りの中に息づき、歴史の大きな転換点として語り継がれています。
あわせて読みたい|マタイク(mataiku)