戦後まもない1949年、日本は占領下という特殊な時代を生きていました。
その混乱の只中で、日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁が忽然と姿を消し、翌日線路上で無残な遺体となって発見されます。
自殺か、それとも他殺か、警察、政府、GHQ、マスコミ、法医学界までもが真っ二つに割れ、ついに公式な結論が出されることはありませんでした。
戦後最大級の未解決事件と呼ばれる「下山事件」この事件はなぜ真相にたどり着けなかったのでしょうか…。
下山事件、総裁はなぜ消えたのか
下山事件とは、1949年7月5日、日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁であった下山定則氏が、出勤途中に失踪し翌7月6日未明に線路上で轢死体として発見された事件です。
事件当日の朝、下山氏は東京都内の自宅で家族と朝食をとり、午前8時20分ごろ総裁専用の公用車で出勤しました。
しかし途中で行き先を何度も変更し、銀行に立ち寄ったあと日本橋の三越百貨店へ向かい、三越南口に到着した下山氏は、運転手に「5分ほど待っていてほしい」と告げて店内に入りました。
しかし、約束の時間を過ぎても下山氏は戻らず、そのまま行方不明となります。
翌日未明、常磐線(北千住〜綾瀬間付近)の線路上で、列車に轢かれて激しく損壊した遺体が発見され、所持品などから下山氏本人であることが確認されました。
ここから事件は、自殺か他殺かという大きな論争へと発展していきます。
戦後日本と国鉄、下山氏が背負っていた重すぎる役割
下山事件を理解するうえで欠かせないのが、戦後直後の日本社会の状況です。
第二次世界大戦後、国鉄は復員兵や海外からの引揚者を大量に雇用し、職員数は約60万人にまで膨れ上がっていました。
その結果、国鉄の経営は慢性的な赤字に陥り、国家財政の大きな負担となります。
占領下で日本の財政再建を急いでいたGHQは、いわゆるドッジ・ラインと呼ばれる緊縮財政政策を推進し、その一環として国鉄に対しても大規模な人員整理(リストラ)を求めました。
1949年6月に発足したばかりの日本国有鉄道で、その重責を担わされたのが初代総裁・下山定則氏でした。
最終的に約10万人規模の職員削減が計画されており、労働組合は激しく反発、街ではデモが起こり総裁や政府関係者には暗殺の噂すら流れていたといわれます。
そして事件当日の7月5日、下山氏は第一次整理として約3万人の職員に解雇通告を行った直後でした。
自殺か、他殺か、なぜ真相は闇に消えたのか
事件発生後、警察は大規模な捜査を開始しましたが、結論は簡単には出ませんでした。
さらに、事態を複雑にしたのが政治的圧力で、GHQや日本政府は当初から他殺の可能性を重視し、警察に殺人事件としての捜査を求めたとされています。
一方、警視庁捜査一課は捜査の結果、自殺とする結論をまとめ、公表しようとしましたが会見は直前で中止、その後に捜査二課に引き継がれますが、決定的証拠は得られませんでした。
マスコミも自殺派・他殺派に分かれて報道合戦を繰り広げ、法医学界でも「生前轢断」「死後轢断」をめぐって大学同士が激しく対立します。
最終的に、警察は公式な捜査結果を発表しないまま捜査本部を解散、検察は殺人事件として捜査を続けましたが、事件から15年後の1964年7月6日、公訴時効が成立しました。
こうして下山事件は、政治・労働問題・占領政策・警察組織の内部対立といった、戦後日本が抱えていたあらゆる矛盾を内包したまま、完全な未解決事件として歴史に刻まれたのです。
推理作家・松本清張をはじめ、多くの研究者や記者が真相に迫ろうとしましたが、今なお決定打は見つかっていません。
まとめ
下山事件は、単なる「謎の死」ではなく、戦後復興という国家的課題の中で、個人に過剰な責任が集中し政治と捜査、世論が複雑に絡み合った結果に生まれた未解決事件です。
真相が明らかになることはありませんでしたが、この事件を知ることは、戦後日本がどのような時代を歩んできたのかを知ることでもあります。
下山定則氏の死は、今もなお「戦後」という時代の重さを、私たちに静かに問いかけ続けています。
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