日本の近代警察制度を築き、「日本警察の父」と呼ばれる川路利良(かわじ としよし)、薩摩藩で生まれ、維新とともに新国家建設の最前線を走り続け、わずか44歳(数え46)でその生涯を閉じました。
西郷隆盛との対決、西南戦争、そして盟友・大久保利通の暗殺事件、川路利良の人生は、まさに近代日本の激動そのものです。
川路利良、薩摩で育まれた規律の精神
1834年、薩摩国比志島村に生まれた川路利良は、厳しい郷中教育で武士の規律と忠誠心を叩き込まれました。
冷水で身を清め、素足で城下を走り、儒学と武芸に励む日々、島津斉彬による西洋化政策にも触れ、早くから「西洋の知」を吸収する重要性を感じるようになります。
1863年の薩英戦争で英国艦隊の圧倒的な火力を目の当たりにし、「西洋の制度や技術を学ばねば国は守れない」と痛感、この経験が後の欧州式警察制度導入へとつながっていきました。
禁門の変では長州藩の来島又兵衛を狙撃して戦功を挙げ、以後は鳥羽・伏見、上野戦争、会津戦争などでも活躍し勇猛果敢かつ統率力のある武士として高い評価を受け、西郷隆盛・大久保利通から強く信任される人物となります。
欧州視察で警察制度の必要性を確信
明治政府発足後、、川路は欧州視察団に選ばれ、フランスの中央集権型警察制度に衝撃を受けます。
特にジョゼフ・フーシェが築いた体系的な治安機構を学び、「これこそ今の日本に必要な制度だ」と確信し、帰国後は警保寮の設置、邏卒制度、階級制、制服制定など、近代警察の基礎をほぼ一人で設計していきました。
1874年、川路は40歳で警視庁の初代大警視(現・警視総監)に就任、自ら巡査の訓練を厳格に行い、毎日のように署や交番を巡視、睡眠4時間以下の激務でも「治安こそ国家の土台」と語り続け、現場主義の警察を作り上げました。
西南戦争で西郷隆盛との対決という最も重い選択
1877年、西郷隆盛が挙兵すると、川路は人生最大の試練を迎えます。
同郷で尊敬する先輩、しかし今の自分は新政府の警察を率いる立場、「私情においては忍びない。しかし国家秩序を守るため、私情を捨てる」、川路は警視隊で構成された別働第三旅団を率い、田原坂で抜刀隊を指揮し、西郷軍に痛打を与えました。
この薩摩同士の戦いは、川路の心に深い傷を残します。
もう一つの悲劇「紀尾井坂の変」で盟友・大久保利通が暗殺
1878年5月14日、政府要人への不満を募らせた士族らが東京・紀尾井坂で大久保利通を襲撃、川路にとって大久保は、最も深い信頼を寄せる上司であり警察制度改革の最大の理解者でした。
しかも川路は、この暗殺計画の情報を事前に得ていたにもかかわらず、「石川県士族に何ができるのか」と軽視した記録が残っています。
結果として、大久保は命を落としました。
この事件は川路に大きな精神的痛手を与えただけでなく、警察行政を巡る批判も強め、彼の負担をさらに増加させました。
激務が生んだ早すぎる死
1879年、川路は再び欧州の警察を視察するため渡航しますが船旅で発病し、パリで治療を受けても回復せず、帰国後わずか5日で息を引き取りました。
享年44歳(数え46)、過労や毒殺説まで囁かれましたが真相は不明です。
薩摩武士として生まれ、維新の激動を駆け抜け、近代国家に不可欠な警察機構を日本に根づかせた川路利良、その制度設計の多くは現代警察にも受け継がれています。
西郷隆盛との対決、大久保利通の暗殺という二つの悲劇を抱えながらも、「国家を守る」という信念を貫いた生涯は、日本の近代化の象徴ともいえるでしょう。
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