1936年2月26日未明、陸軍の青年将校たちが約1,500名の兵士を率いてクーデターを起こし、当時の日本を震撼させた事件が「二・二六事件」です。
この事件の背景には、経済不況、農村の困窮、政治腐敗、軍内部の派閥対立があったのです。
二・二六事件の背景と原因

1929年の世界恐慌は日本経済にも深刻な影響を及ぼし、特に農村部の生活は極端に悪化していました。
農民の多くが貧困に苦しみ、一部の家庭では娘を遊郭に売ることさえあったのです。
軍の兵士の多くは農村出身であり、彼らは貧困の実情を身をもって知っていたため、社会改革を求める声が軍内部で高まります。
そのような状況の中、陸軍内部では国家改造の手法をめぐり「皇道派」と「統制派」が対立していきます。
皇道派は武力による昭和維新を主張し、農民や庶民のための改革を求めた一方、統制派は合法的な手段での改革を目指し、軍の組織的強化を図っていました。
皇道派の青年将校たちは、政治家や財閥が国を私物化し、天皇と国民の間の絆を損なっていると考え、これを打破するために行動を起こす必要があると感じていたのです。
クーデターの経過
1936年2月26日未明、東京は30年ぶりの大雪に見舞われていました。
そんな中、皇道派の青年将校約20名が約1500人の兵士を率いてクーデターを決行します。
彼らの目的は、政治の腐敗を打破し、軍主導での改革を実現することでした。
彼らは昭和天皇が自分たちの行動を支持してくれると信じていたため、政府要人の暗殺と東京中心部の占拠を計画。
彼らは岡田啓介首相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監、鈴木貫太郎侍従長、高橋是清大蔵大臣らの邸宅を襲撃し、実際に数名の政府要人を殺害、岡田首相邸では義理の息子が身代わりとなり、岡田自身は奇跡的に生還(義理の息子は死亡)しましたが、斎藤実は47発の銃撃を受け死亡、渡辺錠太郎も激しい銃撃戦の末に射殺されました。
また、高橋是清は寝室で布団ごと銃撃され、刀で斬られるなど、惨劇が次々と発生します。
この厳しい気象条件の中、青年将校たちは部隊を複数に分け、政府要人の官邸や私邸を次々と襲撃しました。
事件発生後、反乱軍は陸軍省、警視庁、内務省などを占拠し、東京の政治機能を麻痺させることに成功し、一時的に政府機能は停止、反乱軍が主導権を握る状況が生まれました。
陸軍上層部と昭和天皇の対応
クーデター発生直後、陸軍上層部の対応は揺れ動きました。
一部の上層部は青年将校たちの行動に理解を示し、これを機に軍主導の政権樹立を考える動きもありました。
しかし、昭和天皇はこのクーデターに激怒し、直ちに鎮圧命令を下します。
天皇は「自ら討伐に向かう」と発言し、反乱軍の兵士たちは天皇の支持を期待しましたが、それは叶いませんでした。
天皇の強い意志を受け、戒厳令が発令され、24,000人の政府軍が反乱軍を包囲、軍の首脳部は投降を促すために説得を試みますが、青年将校たちは降伏を拒否します。
最終的に、政府はラジオ放送や空中ビラを用いた説得活動を展開し、徐々に兵士たちは降伏することを決断したのです。
青年将校たちは当初、徹底抗戦を考えていましたが、最終的には自決を試みる者も出ましたが、多くの将校は裁判で自らの主張を訴えることを決意し、投降の道を選びました。
クーデターの終息とその後
鎮圧後、事件の主導者である青年将校17名は軍法会議にかけられ、死刑判決を受けます。
この事件によって皇道派は陸軍内部から完全に排除され、統制派が軍の主導権を握ることとなりました。
その結果、日本は軍部の政治支配を強化し、戦時体制へと突入していったのです。
二・二六事件は、単なるクーデター未遂ではなく、日本が戦争へと進む重要な分岐点となりました。
この事件後、日本の政治は軍部主導で動くようになり、日中戦争(1937年)や太平洋戦争(1941年)へと大きな影響を及ぼしました。
まとめ
二・二六事件は単なるクーデター未遂ではなく、日本の政治と軍の関係性を決定づける大きな転換点でした。
この事件を経て、軍部はより強い影響力を持ち、政府の意思決定にも深く関与するようになり、結果として、日本は戦争への道を避けることができず、太平洋戦争へと突き進んでいきました。
この歴史的出来事から、国家の意思決定における軍の関与の危険性や、政治の安定性がいかに重要であるかを学ぶことができます。
この教訓を現代に活かすことこそ、歴史を学ぶ意義であるのではないでしょうか。
あわせて読みたい|マタイク(mataiku)