東洋のジャンヌ・ダルクと呼ばれた『福田英子』女性解放を切り開いた覚悟の生涯とは

福田英子

女性が政治や社会に関わることが異端とされた明治時代、そんな時代に教育と社会改革の両輪で女性の地位向上を訴えた一人の女性がいました。

福田英子(ふくだ ひでこ)、後に「東洋のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた彼女は、命を賭けて女性解放の道を切り開いた先駆者です。

今回は、福田英子の波乱に満ちた生涯と彼女が残した思想の軌跡を紹介します。

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教育熱心な家庭に育った少女時代

福田英子は、1865年(慶応元年)岡山県に生まれました。

父親は教育に理解が深く、幼い頃から読み書きを教えられた英子は、わずか15歳で小学校の助教員に任じられるほどの才女でした。

当時、女子教育は贅沢とされる時代、それでも彼女は「女性も学ぶ権利がある」と信じ、18歳で母の協力のもと女子教育の場として、私塾「蒸紅学舎」(じょうこうがくしゃ)を開きました。

働く女性にも学びの機会を与えたこの試みは、のちに女子教育の草創と呼ばれます。

自由民権運動への参加と大阪事件

明治政府が近代国家を目指す中、国民の政治参加を求める「自由民権運動」が全国で広がります。

英子は、女性演説家の先駆者・岸田俊子(中島湘煙)の演説に感銘を受け、「女性も国のために声を上げるべきだ」と決意、やがて彼女は板垣退助率いる自由党に接近、1885年(明治18年)、英子は自由党員の大井憲太郎らとともに、朝鮮の独立支援を名目とした政治活動に加わりました。

しかし、この計画が発覚し彼女は爆発物運搬などの容疑で逮捕、これが後に有名な「大阪事件」です。

20歳にして獄中生活を経験した英子は、「女性である前に、一人の人間として国家のあり方に責任を持つべき」との信念をさらに強めます。

彼女にとって投獄は屈辱ではなく、社会の不正に立ち向かう覚悟を固める試練だったのです。

社会主義と女性解放運動へ

英子は1892年(明治25年)、社会運動家の福田友作と結婚しますが、夫を早くに亡くします。

孤独の中で生計を立てるために働きながらも、「女性が経済的に自立できなければ真の自由はない」と考え、1901年(明治34年)に角筈女子工芸学校を設立しました。

さらに社会主義者の堺利彦や幸徳秋水らとともに平民社に参加、1907年には女性誌『世界婦人』を創刊し、海外の婦人参政権運動を紹介しながら、日本の女性たちに政治的意識を促しました。

誌上で英子はこう記しています。

女性の政治的独立は、社会の道徳を正す第一歩である。

しかし、政府の監視と経済的困難のため、雑誌は第38号で廃刊します。

晩年と東洋のジャンヌ・ダルク

晩年の英子は、心臓病を患いながらも講演活動を続けました。

「苦悶の上にまた苦悶あり」と自らを省みながらも、「妾が血管に血の流るる限り、未来においても妾はなお戦わん」と語った言葉は、今も日本の女性運動史に残る名文です。

英子は、1927年(昭和2年)享年61歳で死去しました。

墓は東京都豊島区の染井霊園にあり、「婦人解放運動のさきがけ」と刻まれた碑が静かに彼女を見守っています。

「報われることはなかったが、決して折れなかった」その姿勢こそが、のちに平塚らいてうや市川房枝といった女性運動家たちに受け継がれていくのです。

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まとめ

福田英子は、明治という男性中心の社会の中で、教育・政治・思想の三分野に足跡を残した女性解放の先駆者です。

彼女だけがきっかけではありませんが、彼女は間違いなくその中心で最初の火を灯した一人でした。

東洋のジャンヌ・ダルクと称されたその生涯は、女性が社会で生きることを罪ではなく誇りに変えた軌跡、現代に生きる私たちにも「声を上げる勇気」を教えてくれます。

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