日本の義務教育では、太平洋戦争の出来事を学ぶものの、フィリピン・マニラで起きた10万人以上の市民の犠牲について深く知る機会はほとんどありません。
しかし、現地ではその記憶は街の風景の一部として残り、人々に悲劇を訴え続けています。
一方で、フィリピンは世界でも屈指の親日国、なぜこれほどの悲劇を経験した国が、日本に対してこれほど友好的でいられるのでしょうか…。
10万人以上が犠牲とされたマニラ市街戦
1945年2月から3月にかけて行われた「マニラ市街戦」、フィリピンの首都マニラで、日本軍と米軍が激しい戦闘を繰り広げ市街地は戦場と化しました。
犠牲者は10万人以上といわれていますが、その内訳は単純ではありません。
日本軍による住民への暴力・報復行為、市街戦での米軍砲撃や航空爆撃、避難不能状態に陥った市民の巻き添え死、これらが複雑に絡み合った結果であり、すべてが虐殺に分類されるわけではありません。
ただし、末期の日本軍の一部部隊が統制を失い、暴走して残虐行為を行ったことも歴史的事実として残っています。
フィリピン側では、犠牲者数の多さと日本軍の加害は「自明の歴史」と捉えられており、戦争の記憶として強く根付いています。
マニラの街に残る記憶の痕跡
日本では教科書の制約もあり、この歴史が深く語られることはありません。
しかしフィリピンでは、日常の中に記憶が刻まれています。
イントラムロス(旧城壁都市)にある 「Memorare Manila 1945」追悼碑 には、犠牲者ひとりひとりを悼むメッセージが刻まれています。
また、サンチャゴ要塞には日本軍が使った地下牢が保存され、600体以上の遺体が発見されたと説明される場所もあります。
内部には蒸し暑い空気がこもり、わずかな歩行でも汗が流れ、ここでどれだけの人が苦しんで亡くなったのか?と想像せざるを得ません。
これらは山奥の戦跡ではなく、マニラホテルやリサール公園から徒歩数分の観光地にあり、フィリピンにおいて戦争の記憶は生活の中に佇み続けているのです。
フィリピンが親日国であり続ける理由
これほどの悲劇があった国が、なぜ日本に対してこれほど友好的なのでしょうか。
外務省の調査では、フィリピン人の97%が日本に友好感情を持つと回答しています。
その理由は複数あり、「戦後まもなく日本の遺族会や元兵士がフィリピンに赴き謝罪を続けた」、「日本の経済支援やインフラ開発が現地の生活を支えた」、「マルコス独裁など国内政治への反発で日本の加害が相対化された」まど、これらが積み重なりフィリピンは現在アジア屈指の親日国となりました。
しかしこれは、過去を忘れたからではありません。
追悼碑や戦跡を見ればわかるように、彼らは記憶を保ちながらそれでも未来志向で日本と向き合ってくれているのです。
日本の教育では触れられないもうひとつの戦争史
日本の義務教育では、太平洋戦争の概要は扱うものの、マニラ市街戦の犠牲やフィリピンの苦難の歴史が詳しく語られることはほとんどありません。
理由としては、「国際政治的な配慮」、「被害国ごとの詳細を扱うと膨大になる」、「教育内容の中立性を巡る議論が避けられやすい」といった事情があります。
しかし、教育の中で扱われないからこそ、加害者としての日本の側面を理解することは難しいままです。
それでもフィリピンは、過去を忘れず未来志向で日本と関係を築いてくれています。
その事実を知ること自体が、相手国への敬意につながるでしょう。
まとめ
マニラ市街戦とマニラ大虐殺は、日本ではあまり語られませんがフィリピンでは今も生活の中に記憶が残っています。
10万人以上が犠牲となった悲劇は、日米双方の戦闘と日本軍の暴走が複合的に生んだものであり、一国だけで説明できるものではありません。
過去を忘れたのではなく、未来の関係を選んでくれたことにこそ、私たちは深い感謝を持つべきでしょう。
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