戦争の裏側には、決して語られることのない秘密戦が存在します。
神奈川県川崎市の丘の上に広がっていた「登戸研究所」は、約1000人が働いていたにもかかわらず、80年ものあいだ沈黙の中に置かれてきました。
風船爆弾、毒薬、偽札、スパイ道具、戦争のルールさえ踏み越える研究が、日常のすぐ隣でひっそり行われていたのです。
なぜ彼らは口を閉ざし続けたのか、何がそこで行われていたのか…その全貌に迫ります。
登戸研究所とは何だったのか
登戸研究所は、1939年に陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄によって設立されました。
目的はただ一つ、「秘密戦(謀略戦)」に関わる技術の開発でした。
ここでは物理兵器、化学兵器、通信機器、スパイ用の装備、そして経済破壊を狙った偽札まで、あらゆる秘密工作の道具が研究され、戦争末期には約100棟の建物が並び、軍人・研究者・地元住民・女学生を含むおよそ1,000人が働いていたと記録されています。
研究所は4つの科に分かれ、それぞれが極秘の任務を担当していました。
- 第一科:風船爆弾・電波兵器・怪力光線など物理系兵器
- 第二科:毒薬・細菌兵器・スパイ道具・秘密インクなど化学系兵器
- 第三科:中国法幣の偽札製造やパスポート偽造など経済謀略
- 第四科:実用化試作や製造工場の管理
大々的に語られることは少ないものの、ここで開発された兵器は戦争の裏側で実際に使われ、多大な影響を及ぼしました。
風船爆弾・毒物兵器・偽札の正体
登戸研究所の研究内容は、今日の視点で見ると驚くほど過激で、国際法違反と見なされる可能性の高いものでした。
第一科が開発した「風船爆弾」は、偏西風の性質を世界で初めて科学的に分析した成果でもありました。
和紙を貼り合わせて作られた巨大な気球に爆弾を搭載し、無人でアメリカ大陸へ到達させる作戦は、実際に9,300発が放たれ、そのうち約1,000発がアメリカ・カナダに到達したとされます。
風船の制作には全国の女学生が動員され、高度な作業のために「指紋がすり減る」ほど働かされることも珍しくありませんでした。
第二科はさらに危険な研究を行っており、15分後に効果が出るよう調整した毒物、スパイが使うための毒針、キノコ由来の毒剤、そして動物実験・人体実験に関わる研究も行われていたと証言されています。
この研究内容が、戦後の「帝銀事件(1948)」の捜査で注目され、警察は犯行に使われた毒物が登戸研究所由来ではないかと調査しました。
第三科の杉作戦は特に大規模で、中国で使用されていた法幣の偽札を大量に製造し、経済を混乱させる目的で40億円相当を印刷、そのうち30億円以上が実際に流通したとされています。
高度な印刷技術は戦後、GHQによる共産圏文書の偽造に利用されたほどで、この分野に関して登戸研究所は世界でも屈指の技術集団でした。
沈黙を強いられた人々
登戸研究所の従業員は、家族や友人に一切の仕事内容を話すことを禁じられていました。
命令書には「口外したら厳罰」と明記され、自分の仕事がどのような戦争犯罪に関わっているかを知らされないまま働く者も多かったのです。
記録には、次のようなものがあります。
- 女学生は風船爆弾に本物の爆弾が付いていることを知らずに作業していた
- 化学兵器開発者は動物実験に抵抗しながらも「必要な犠牲」と言い聞かせていた
- タイピストは夜間学校で技術を学び、徹夜で資料作成を行っていた
- 家族は仕事の内容を知らされず、夫や父の変化に怯える日々を過ごしていた
終戦の日、天皇の玉音放送を聞き終えると同時に「すべての資料を焼却せよ」という命令が出され、風船爆弾のデータも毒物の実験記録も偽札も全て焼却され、彼らが数年間費やした仕事は跡形もなく消えました。
戦後40年の沈黙、真実はどのように明らかになったか
登戸研究所の存在が広く知られるようになったのは、実は戦後40年も経ってからのことです。
近隣の高校生たちが興味本位で元職員に聞き込みを行ったことがきっかけでした。
当初、元職員たちは誰も語りたがらなかったものの、学生たちの真剣さに心を動かされ、少しずつ証言が集まり始めました。
これにより研究内容の輪郭が明らかになり、2010年には旧研究棟の一部を活用した「平和教育登戸研究所資料館」が開館、風船爆弾の模型や証言記録、当時の実験資料が展示され、世界でも稀な秘密戦研究専門資料館となっています。
資料館ができて初めて「もう話してもよい」という気持ちになった元職員も多く、長く重荷となっていた沈黙から解放されたと振り返ります。
まとめ
登戸研究所は、第二次世界大戦の裏で秘密兵器や謀略のための研究を行った、日本でも特異な軍事施設でした。
登戸研究所の歴史は、戦争が人々に強いる言えない日常の痛みと、記録を残すことの大切さを私たちに教えてくれます。
今の平和の裏にどんな影があったのかを知ることが、未来の過ちを防ぐ第一歩になるのではないでしょうか。
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