ブータン、南アジアの山岳地帯に位置するこの国では、厳しい地形と気候条件により農業が非常に難しいものでした。
そんな中、一人の日本人が現地の農業を大きく変革し、今なお「ブータン農業の父」として語り継がれています。
この実話は、農業だけでなく、異文化理解や困難を乗り越える情熱について深く考えさせてくれる物語です。
ブータンを救った「西岡京治」の奇跡の挑戦
農業危機の中での異例の要請
1960年代初頭、ブータンは深刻な農業問題を抱えていました。
山岳地帯特有の厳しい気候と狭い耕地、伝統的な焼畑農業が主流で、食料の自給すらままならない状況だったのです。
そんな中、「日本の専門家を招いて農業の近代化を図りたい」と、ブータン首相が農業指導者の派遣を要請します。
しかし、その道のりは簡単ではありませんでした。
当時、日本の農業技術に対する国際的な評価は高かったものの、「遠く離れた日本のやり方が役に立つのか?」と疑問視する声が現地では根強かったのです。
「日本人だけは雇うな!」と冷ややかな視線を向けられる中、一人の日本人がその壁を打ち破りました。
その人物こそ、「ブータン農業の父」として知られる「西岡京治」さんです。
大根が紡いだ第一歩
1964年、西岡さんは妻の里子さんとともにブータンに赴任しました。
パロの地に着いた西岡さん夫妻を待ち受けていたのは、決して歓迎ムードではありませんでした。
現地の農業局職員はインドから派遣された専門家たちで、彼らは「ブータンの農業は我々が最も理解している」として、西岡さんの存在に否定的でした。
そんな中、西岡さんがまず手がけたのは、小さな試験農場の設立です。
わずか200平方メートルの土地を使い、現地の少年たちに日本の大根の栽培を指導しました。
その結果、見たこともない大きさの30センチほどの大根が収穫され、周囲の人々は驚きの声を上げました。
「日本の種はすごい!」という評判が瞬く間に広がり、ブータンの人々の心を動かすきっかけとなったのです。
国王の信頼と試験農場の拡大
大根の成功を皮切りに、西岡さんの取り組みは次第に広がりを見せました。
試験農場で栽培されたトマトやキャベツも高い評価を受け、地元のリーダーたちから「自分たちの村でも指導をお願いしたい」との声が続出しました。
その後、西岡さんはブータン国王から「本格的な試験農場を運営してほしい」との依頼を受けます。
これにより、西岡さんはパロ農場という拠点を得て、果樹園、野菜畑、水田を備えた包括的な農業施設を整備しました。
また、西岡さんの農業技術指導は単なる栽培方法の伝授にとどまらず、農機具の貸し出しや種苗の生産、さらには収穫物を活用した加工品の製造と販売まで視野に入れていました。
「ブータンの農村が自立できる仕組みをつくりたい」という信念のもと、地道に活動を続けたのです。
最貧地域への挑戦と800回の対話
1972年、第4代国王の即位後、西岡さんはさらに大きなプロジェクトを託されました。
それは、焼畑農業に頼る中央ブータンの最貧地域シェムガン県での総合開発計画です。
この地域は険しい山々に囲まれ、農業の近代化が進んでいませんでした。
現地住民たちは「政府が土地を取り上げるつもりではないか」「国がお金を注ぎ込んで水田を開こうなんて信じられん」と疑心暗鬼で、西岡さんたちの計画に反発しました。
それでも西岡さんは諦めませんでした。
村人たちと800回以上の対話を重ね、パロ農場の見学を通じて理解を深める活動を続けました。
最終的に62家族が協力を申し出、手作業で水田の整備や道路の建設を進めることになりました。
さらに、地元の少年たちをパロ農場で研修させ、帰郷後は地域のリーダーとして活躍してもらいました。
5年間の開発の結果、シェムガン県では水田が60ヘクタール、畑が16ヘクタールに拡大し、年間3万トンの米が収穫できるようになりました。
また、新たに設けられた吊り橋や用水路、学校、診療所が地域の生活基盤を大きく改善しました。
この成果に村の人たちは…
「3万人もこえるみんなが、たんぼや畑のある土地におちついて住むことができて、まるで夢のようです。学校もできてありがたいことです。」
「村はすっかり生まれ変わりました。ニシオカさんが、はじめに言ってくれていたとおりになった…。」
村の人たちは涙を浮かべ、西岡さんの手を固く握りしめたのです。
「ダショー」の称号と突然の別れ
西岡さんの功績はブータン国民に深く感謝され、1980年には国王から「ダショー(最高の人)」の称号を授与されました。
これは非常に名誉ある称号で、国王からの厚い信頼を象徴するものです。
しかし、1992年3月21日、西岡さんは敗血症により急逝、享年59歳でした。
彼の葬儀には5,000人もの人々が参列し「国葬」として執り行われました。
その際、国王の伯父からの感謝の言葉が届けられ、「あなたの尽力がなければ、私たちの進歩はなかった」と涙ながらに語られました。
まとめ
西岡京治さんの生涯は、ブータンと日本の絆を深め、農業を通じて人々の生活を向上させた感動的な物語です。
逆風の中、誠実な努力と地元の人々との対話を通じて信頼を築き上げた彼の姿は、現代でも多くの示唆を与えてくれます。
彼の挑戦は、日本史には載らないものの、世界に誇るべき日本人の偉業として心に刻まれるべきものです。
ブータンを愛し、その未来を信じた西岡さんの精神は、今なお両国の友情の礎となり続けています。
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