飢饉が村を襲い、全国で数十万人が命を落とした時代。
天明の大飢饉という未曾有の危機の中、佐原村(現・千葉県香取市)では、奇跡的に1人の死者も出ませんでした。
その奇跡を起こしたのは、日本地図作成で知られる「伊能忠敬」。
その背後には、彼の驚くべき手腕と人望がありました。
天明の大飢饉とは
天明の大飢饉(1782―1788年)は、江戸時代後期に発生した日本史上最大級の飢饉の一つです。
その背景には、複数の要因が絡み合ってました。
- 冷害と異常気象
浅間山の大噴火(1783年)による火山灰や硫酸エアロゾルが日照を遮り、地球規模で気候を寒冷化させました。
これにより、日本各地で冷害が頻発し、稲や麦などの主要作物が壊滅的な被害を受けたのです。 - 農業の脆弱性
当時の農業は天候に大きく依存しており、一度不作になると次の収穫まで食糧不足が深刻化します。 - 経済的要因
上記にともなって、米価が高騰し、貧しい農民や都市の庶民が食料を買えず、餓死者が続出。
さらに、年貢の取り立てが厳しく、農民の生活を一層苦しめました。
飢饉による生活の困窮と被害
この飢饉により、多くの地域で人々の生活は壊滅的な状態に陥りました。
- 食糧不足
作物が不作になり、主食の米や麦が手に入らない。
野草や木の皮、さらには土を混ぜたものなど、栄養価の低いものを食べて命をつなぐ人々が大半だった。 - 病気の蔓延
栄養不足による免疫力の低下で、脚気や壊血病、疫病が流行し、多くの人が命を落とした。 - 社会の混乱
餓死者が続出する中、食料を求めて盗みや打ちこわしが頻発。
家族が離散し、子どもを奉公に出す、あるいは捨て子や人身売買が横行。
被害の規模
天明の大飢饉による被害は、日本全土に及び、90万人が餓死したとされています。
特に東北地方では、1/3の人口が亡くなったとされ、多くの村が廃村となりました。
飢饉後の人口減少は地域経済にも深刻な影響を及ぼし、復興には長い年月がかかりました。
救世主「伊能忠敬」飢饉対策
そんな中、佐原村では奇跡的に1人の死者も出ませんでした。
その立役者が、後に日本地図作成で名を馳せる「伊能忠敬」です。
当時、彼は村の名主(地域リーダー)として、地域を守るために以下の行動を取ったとされます。
米の備蓄と放出
飢饉の前年、米価が暴落したが、伊能忠敬は売却せずに自身の蔵に米を備蓄。
すると飢饉になり、米価が高騰する中で米を売ることなく備蓄を維持し、最も困窮した時期に村民に無償で分け与えたた。
特に貧しい農民や浮浪者を優先的に支援し、栄養不足による餓死を防いだ。
さらには、飢饉による他地域からの流入者にも対応した。
一人につき一日一文を支給し、生活の立て直しまで支援した。
年貢の免除交渉
他の名主たちと共に地頭所に出向き、年貢の免除を求めた。
その結果、佐原村の年貢は全額免除され、さらに「御救金」として100両が支給された。
これにより、村民たちは飢饉の最中でも最低限の生活を維持することができた。
利根川堤防工事の指揮
利根川が大洪水を起こした際、忠敬は堤防工事の責任者として工事費の節約を図りながら迅速な対応を指揮しました。
この工事によって洪水の被害を最小限に抑え、村民の暮らしを守りました。
なぜ伊能忠敬はここまでできたのか?
伊能忠敬がこれほどの功績を成し遂げられた背景には、次のような要因があります。
- 商人としての経験
忠敬はかつて米問屋を経営しており、流通や価格動向に関する知識が豊富でした。 - 先見性と計画性
飢饉のリスクを見越して早期から対策を講じ、必要な物資を確保していた。 - 村民との信頼関係
普段から村民と良好な関係を築いていたため、彼の指示がスムーズに実行された。
これらの行動が評価され、伊能忠敬は39歳の時に名主よりも上位の「村方後見」に任命され、さらに多くの地域を監督する役割を担いました。
まとめ
天明の大飢饉は、多くの人々の命を奪った悲劇的な出来事でした。
しかし、その中で伊能忠敬が見せた行動は、リーダーシップの模範であり、地域社会を守るための知恵と行動力の重要性を教えてくれます。
飢饉に備えるための計画性、困難に直面した時の冷静な判断、そして周囲の人々を思いやる心。
これらは現代社会においても学ぶべき価値ある教訓です。
伊能忠敬の功績は、日本地図作成だけではなく、危機の中で人々を守るという人間性の輝かしい一面を示しています。
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