戦時中の日本では、男性たちが「赤紙」と呼ばれる召集令状を受け取ると、原則として戦場に向かわなければなりませんでした。
しかし、誰も喜んで兵役へ向かったわけではありません。
そんな中、命を守るため、家族を守るため、極限の状況で考え出された「徴兵逃れ」の手口がいくつも存在しました。
今回は、当時の人々がどのような方法で兵役を回避しようとしたのか、その実態を紹介します。
赤紙を逃れるためにした徴兵逃れの方法

「赤紙」とは、戦時中に兵役義務を通知するために送られた召集令状のことです。
この通知を受けた者は、法律上、すべての成人男子が兵役を担う義務があるとされていました。
しかし、誰もが喜んで戦場に向かったわけではありません。
赤紙を逃れるためのさまざまな「徴兵逃れ」の手口を使い徴兵から免れたのです。
病気や障害の偽装
健康診断で「不合格」となることを狙って、病気や障害を装う人は少なくありませんでした。
一部の人は体温を高く見せるために唐辛子を飲んだり、体調を悪化させるためにわざと不健康な生活を送ることさえありました。
精神疾患を装う人もいて、診断時に奇行を見せたり暴言を吐くなどして「精神的に問題がある」と判断されることを狙いました。
また、外傷を自ら作ることもあり、例えば指を切り落とすなどの過激な手段に及ぶケースもあったといいます。
このような行動は身体や心に大きな負担を強いるため、成功しても後遺症に苦しむ人も多かったようです。
養子縁組による免除
「一家の長男は徴兵を免除される」という制度を利用し、養子縁組で長男になることで兵役を回避しようとする方法もありました。
男子がいない家庭に養子に入ることで「家系を継ぐもの」として扱われるようになり、赤紙を受け取らずに済む可能性が高まりました。
裕福な家庭では、次男や三男を養子として迎え入れるために相手の家庭に報酬を支払うこともあったと言われてます。
一方、形式的に書類上だけの養子縁組が行われることもありました。
こうした方法は法律の抜け道を利用したものですが、後に不正行為とみなされる場合もあったと言います。
代人料(代替料)の支払い
明治時代の徴兵制度初期には、「代人料」という制度があり、兵役を免れるために一定額の金銭を支払うという仕組みがありました。
代人料は当時の金額で270円(現在で270万円程)と高額で、一般庶民には到底手が届かないものでした。
そのため、この制度を利用できたのは主に裕福な家庭に限られていました。
一部では、自分の代わりに兵役に就いてくれる「代理人」を雇うケースもあったようです。
この代理人制度は貧困層が生活費を得るために引き受けるケースがあった一方で、格差を助長する問題となり、最終的には廃止されました。
教育や専門職による猶予
国家に必要な人材とみなされた理系学生や教員養成学校の学生には、徴兵猶予が与えられることがありました。
特に工学や医学を学ぶ学生は、戦争遂行に不可欠な技術者や医師として期待されていたため、徴兵を避けるために進学を目指す若者が増加し、一部の学校では競争率が急激に高まりました。
また、教員養成学校の学生も教育を通じて戦後の復興を担う役割が期待され、猶予対象となることがありました。
ただし、戦況が悪化するにつれ学徒出陣が始まり、猶予は事実上の終わりを迎えることになりました。
夜逃げや隠れ住む
赤紙が届く前に遠方や山奥に逃れる「夜逃げ」も、徴兵逃れの方法の一つでした。
特に都市部では空襲が激化していたため、その混乱を利用して「行方不明」として扱われることを狙う人もいました。
住民登録が追いつかない状況では、正式に赤紙が届かないまま時間を稼ぐことができる場合もあり、また、地方では地域住民が協力して隠れる人々を匿うケースもあったといいます。
しかし、こうした生活は常に追跡の恐怖と隣り合わせで、孤独や食料不足に悩まされる過酷なものでした。
まとめ
戦争は人々に極限の状況での選択を迫り、生活を根底から破壊しました。
こうした歴史的事実を学ぶことで、私たちは戦争の非人道性や平和の大切さを改めて考えることができます。
私たちは、未来に平和をつなぐために、過去の教訓をしっかりと受け止め、語り継いでいきましょう。
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