空港の滑走路のすぐ隣に民家がある?
しかもそこには、今も人が住んでいたり、宿泊できたりするというのです。
でも、なぜそんな場所に民家が残されているのでしょうか?
その理由には、今なお語り継がれる「日本最大級の反対運動」の歴史がありました。
成田空港建設の裏で起きた、かつてない激しい土地闘争

1966年6月、政府は新たな国際空港を成田市に建設することを閣議決定します。
これが現在の成田空港(正式名称:成田国際空港)です。
しかし、問題はその決定プロセスにありました。
地元住民への説明もなく、突然「この土地を空港にする」と通告された農民たちは大きく反発。
ここから始まったのが、「三里塚闘争」と呼ばれる空前の反対運動でした。
特に強く反対したのは、戦後の入植政策で成田に移り住み、自らの手で開墾した農家の人々。
「この土地は私たちの汗と涙でつくった場所だ」という強い思いを胸に、彼らは農地を奪われることに納得できず、空港建設を阻止すべく立ち上がりました。
さらに、当時全国で盛り上がっていた学生運動の影響もあり、多くの活動家や市民も三里塚に集結。
デモや座り込みは日常茶飯事、時には機動隊との激しい衝突も起こるなど、建設現場はまさに戦場と化していったのです。
滑走路のすぐそばに建てられた要塞と現在も残る建物たち
反対派は空港予定地内に次々と「団結小屋」と呼ばれる仮設の拠点を設けていきました。
なかでも有名なのが「横堀要塞」、ここは簡易なプレハブではなく、浴室やトイレ、ベッドまで備えた本格的な籠城設備を持つ建物で、まるで戦争の塹壕のような防衛施設として長期戦を想定した構造でした。
反対運動は想像以上に組織的で、時には鉄塔を建てて飛行機の発着を妨害したり、火炎瓶を使ったゲリラ戦を展開するほどの緊迫ぶり、特に有名なのが1977年の「完成塔占拠事件」です。
これは空港の運航に必要な管制塔を反対派が占拠し、機器を破壊、これにより1978年に予定されていた空港開港は2ヶ月延期されるという異例の事態になりました。
こうした戦いの中でも、一部の農民たちは最後まで土地を手放さず、行政の強制収用にも抵抗します。
結果、空港の滑走路・誘導路のごく近くに立ち退きに応じなかった民家や建物がポツンと残される形になったのです。
今なお泊まれる異空間、空港の中にある宿泊施設とは?
驚くべきことに、こうした建物の一部は現在も宿泊施設として営業中です。
たとえば「木の根ペンション」は、成田空港の第1滑走路のすぐそばにあるゲストハウス。
飛行機の爆音や振動を間近に体感できるため、航空ファンにとってはまさに夢の宿とされています。
また、これらの施設は単なる変わった宿というだけでなく、かつての反対運動の象徴でもあります。
宿として運営することで「公共性」を持たせ、行政からの撤去を回避するという意味もありました。
現在は建物の老朽化や高齢化により、当時の反対派住民が暮らし続けている例は少なくなりましたが、それでも「空港の中に建つ民家」という特殊な風景は残り続けています。
空港敷地のフェンスに囲まれ、周囲に監視カメラが並ぶ中でひっそりと存在するその風景は、まるで時が止まった空間のようです。
成田空港という最先端のインフラの中に、戦後の歴史が刻まれた空間が混在しているという、極めて珍しい現象なのです。
まとめ
成田空港、その裏側には住民の暮らしと信念、そして国家の強行策との壮絶な衝突がありました。
滑走路のすぐそばに残された民家や宿泊施設は、単なる珍スポットではなく、過去に本気で土地を守ろうとした人々の記憶と抵抗の象徴でもあります。
今や「アジアの玄関口」としての機能を果たす成田空港ですが、そこに生き続ける「もうひとつの成田」を知ることで、現代の公共事業や合意形成のあり方にも、深い視点を持つことができるはずです。
空港を訪れる機会があれば、ぜひその近くに今も残る「成田の記憶」にも目を向けてみてください。
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