サンデーサイレンス…今や日本競馬界でその名を知らぬ者はいない名種牡馬も、かつてはアメリカで誰にも見向きされなかった馬でした。
地味な血統、見栄えのしない馬体、激しい気性、そんなマイナスの烙印を押され、二度のセリで買い手がつかず、命の危機にも晒されながら、最後は日本で最強血統を築き上げました。
その奇跡の物語の裏には、ある一人の日本人の執念とも言える決断があったのです。
今回はその波瀾万丈なストーリーを、競馬ファンでなくても楽しめるように詳しくご紹介します。
アメリカでは失敗作とされた馬

サンデーサイレンスが誕生したのは1986年、アメリカ・ケンタッキー州のストーンファーム。父ヘイロー、母ウィッシングウェルという血統ながらも、当歳時のサンデーは細くてひょろ長く、全身はくすんだ黒色、関係者からは「コートハンガーのような馬」「見ているだけで不愉快だ」とまで言われる始末でした。
さらにはウイルス性腸炎により、生死をさまよう重体に…なんとか命を取り留めたものの、再び出品されたセリでは見向きもされず、結局は育ての親・アーサー・ハンコックが1万7000ドルで買い戻すという屈辱の結果に終わります。
また、輸送中に交通事故に遭ったこともあり、「不吉な馬」として敬遠されることもあったほどです。
1988年に競走馬としてデビューすると、その才能は突如として開花します。
1989年にはアメリカ三冠レースのうちケンタッキーダービーとプリークネスSを制覇し、最強馬イージーゴアとの激闘は「20世紀最高のマッチレース」とも称されました。
最終戦のブリーダーズカップ・クラシックでは、1番人気のイージーゴアを首差で破り、G1を6勝、その年のエクリプス賞年度代表馬に輝き、まさに全米の頂点に立ったのです。
しかし、彼の未来は母国アメリカにはありませんでした。
一人の日本人ブリーダーが見抜いた血の価値
ハンコックは種牡馬としてのシンジケートを立ち上げようとしますが、申し込みはわずか数人。
派手さのない血統と荒い気性から「売れない馬」の烙印は消えず、投資家たちも腰が引けていました。
そんな中、動いたのが日本・社台グループ創設者の吉田善哉氏。
彼はサンデーサイレンスのプリークネスSの走りに衝撃を受け、「あれが欲しい」と直感で感じたといいます。
幾度もの交渉の末、1990年、総額1100万ドル(約16億5000万円)でサンデーサイレンスを購入、この買収は当時の日本でも大きな話題になりました。
「なぜ、アメリカで失敗とされた馬にこんな大金を?」と批判され、「日本は馬を見る目がない」と笑う海外メディアまであったほどです。
これが、日本競馬の運命を変える賭けとなり、この吉田氏の決断が、後に日本競馬を世界トップレベルに引き上げるきっかけとなるのです。
悪魔の遺伝子が日本を席巻する
1991年から日本で種牡馬としてのキャリアをスタートさせたサンデーサイレンスは、あっという間に結果を出します。
彼の初年度産駒は日本の重賞レースを次々と制覇し、その後も毎年のようにG1勝利馬を量産したのです。
1995年から2007年までの13年連続リーディングサイアー(産駒獲得賞金No.1)という前人未踏の記録を打ち立てました。
主な産駒には、
- ディープインパクト(日本競馬史上最強と評される)
- スペシャルウィーク
- バブルガムフェロー
- ダンスインザダーク
- サイレンススズカ
- アグネスタキオン
- マンハッタンカフェ
など、日本競馬界のトップホースがズラリと並びます。
そしてその血はさらに孫の世代にも受け継がれ、コントレイル(2020年、無敗で日本三冠達成)のような名馬を生み出し続けています。
2011年の日本ダービーでは、出走馬18頭すべてがサンデーサイレンスの孫という伝説の一戦が話題になりました。
まさに、名馬を次々と輩出し、日本競馬の血統地図を書き換えていきました。
惜しまれるのは、この快進撃を吉田善哉氏が見ることなく、1993年に72歳で他界してしまったことです。
のちに息子の吉田照哉氏はこう語っています。
「せめて父に、サンデーの子が(ダービーを)走るまで、生きていてほしかった。いや、父はきっと今、三歳馬たちの活躍を見て、喜んでくれているに違いありません」
善哉氏はかつて、作家・吉川良氏にこう語っています。
「ノーザンテーストと同じくらい走ると信じてるサンデーサイレンスの子を走らせればね、そのうち、何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね。わたしは生まれ変われないが、わたしのね、馬屋の意地は生まれ変われるんだ。馬屋の全知全能を賭けた交渉だね、サンデーサイレンスは」
この言葉の通り、今や日本のほとんどのG1馬がサンデーの血を引いています。
世界からも認められた日本競馬の礎
この血統の革命によって、日本競馬は世界的なレベルに到達します。
凱旋門賞やドバイワールドカップといった国際舞台でも、日本馬の健闘が目立つようになりました。
その土台を築いたのが、間違いなくサンデーサイレンスなのです。
今や、日本の競走馬の多くがサンデーの血を引いており、「もうサンデーの血からは逃れられない」とまで言われています。
アメリカで見捨てられた悪魔の馬サンデーサイレンスは、日本で最も偉大な種牡馬としての存在になりました。
彼が日本に渡っていなければ、ディープインパクトもコントレイルも存在しなかったかもしれません。
2002年、サンデーサイレンスは蹄葉炎により16歳でこの世を去りました。
亡くなる直前の数日はまったく眠らず、後ろ脚だけで立ち続けるという壮絶な闘病だったといいます。
社台スタリオンステーションに眠るその墓には、吉田善哉の遺品が寄り添うように埋葬されています。
まるで、二人で歩んだ奇跡の軌跡を今も語り合っているかのように…。
まとめ
一頭の馬と、それを信じた一人のブリーダーの決断が、国の競馬史そのものを塗り替えました。
競馬を知らない人でも、この逆転劇にはきっと心を動かされるはずです。
サンデーサイレンス、その名はこれからも永遠に語り継がれていくでしょう。
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