世界各国では核シェルターが、個人レベルでの備えが進んでいます。
では、なぜ日本では核シェルター後進国と呼ばれるほど普及していないのでしょうか?
私たちが無意識に持っている、ある前提や教育による刷り込みが、知らぬ間に私たちの生存戦略を遠ざけているとしたら…?
今回は、日本と諸外国との意識の差、文化の違い、政策の違いを読み解きながら紹介します。
海外では核シェルター=常識?普及の実態とは

世界を見てみると、スイス、イスラエル、アメリカなどでは、個人用核シェルターの設置がある程度当たり前になっている国も少なくありません。
たとえば、スイスでは1960年代以降、法律によって新築住宅には必ず核シェルターを設けることが義務化されました。
国民全員分の収容スペースを確保している数少ない国です。
イスラエルでは、空襲警報が鳴ればシェルターに避難する訓練が日常的に行われ、アメリカでも富裕層を中心に地下に核・災害対応用シェルターを建設する動きが存在します。
このような国々に共通しているのは、「国家の防衛が完璧ではない」「個人で生き残る責任がある」という考え方が社会全体に浸透している点です。
日本に核シェルターが普及しない4つの理由
教育による戦争は起こらないという平和思想
日本では戦後、「非核三原則」「憲法9条」「平和教育」などを通じて、戦争をしない国という意識が強く植え付けられてきました。
その結果、多くの日本人は「戦争や核攻撃は起きない」「起きても日本には関係ない」という前提で暮らしています。
特に若い世代にとっては、戦争は教科書の中の話、備えるという発想自体が生活の中に存在しないのが現実です。
核=絶望という被爆国ゆえの心理的ブレーキ
日本は広島・長崎という未曾有の被爆体験を持つ唯一の国です。
この歴史があるからこそ、核兵器の恐ろしさを誰よりも深く理解している一方で、「核戦争が起きれば地球は終わる」という終末思想的な感覚が強く根付いています。
「生き残ったとしても、その後に希望はない」
「自分が生き延びても、周りが生き残っていると考えられない」
そう考えるからこそ、「核シェルターを作ってまで生き延びる意味があるのか?」という疑問が先に立つのです。
国による支援・制度がまったく整備されていない
スイスのように法制度でシェルターを義務づけたり、アメリカのように一定の補助や情報提供が行われている国とは異なり、日本政府は個人向けの核シェルターについて何の支援も行っていません。
助成金や指導制度はなく、すべて自己責任・自己資金で設置しなければならないため、導入ハードルは非常に高いままです。
また、今の日本の経済状況でシェルターを準備できる人がどれだけいるかも怪しいです。
地震大国ゆえの構造的リスクとコストの問題
日本は世界有数の地震多発国です。
地震によって地中構造物が破損するリスクも高く、「地下に避難施設を作る」こと自体が危険だという見方もあります。
また土地も狭く、建設コストも高いため、都市部に住む一般人が核シェルターを作るのは非現実的とされてきました。
日本人と海外のリアリティの違い
核シェルターの普及率において、日本と海外とでは明らかな差があります。
その背景には、現実感(リアリティ)に対する認識の違いがあると考えられます。
日本人にとって、核兵器は「恐怖」そのものであり、実際に原爆の悲劇を経験したことから、その破壊力や悲惨さは、教科書ではなく感情として刻まれた記憶です。
だからこそ、「もし核戦争が起きたら、生き残ったところで意味がない」と感じてしまう人が多いのです。
一方で、アメリカをはじめとする欧米諸国では、「核戦争=終末」ではなく、「核戦争=生き残りをかけたサバイバル」というリアリティを持つ人が一定数います。
加えて、アメリカやイスラエルなどは実際に軍事的脅威に常に直面してきた国であり、政府も国民も「最悪のシナリオ」を現実のものとして捉える訓練がされてきました。
そのため、「自分と家族を守るには備えが必要だ」と考えることが、ごく自然な行動原理になっているのです。
日本は幸いにも長年、戦争から遠ざかってきた国です。
そのため、「核攻撃が現実に起こるかもしれない」と想像すること自体が難しいのも、ある意味では仕方のないことかもしれません。
しかし、現実感がないからこそ備えない、という状況が続くと、いざという時に対応できないのもまた現実です。
「生き残るつもりがあるかどうか」のリアリティの差。
この認識のギャップこそが、核シェルターを必要なものと捉えるか、無意味なものと切り捨てるかの分かれ道になっているのです。
まとめ
日本には、非核三原則や憲法9条に象徴されるように、平和を守ることを第一に考える国民性は、世界からも高く評価されています。
だからこそ、「核戦争に備える」なんて考えること自体が、日本人にとっては平和を否定するようで心苦しいのかもしれません。
しかし一方で、万が一への備えは、誰かと争うためではなく、大切な家族や地域を守るための優しさの延長とも言えるでしょう。
「そんな未来は来てほしくない」そう願う気持ちと同時に、万一の想定も受け入れる柔軟さが、これからの日本には必要かもしれません。
どんな時代でも「考えること」から、未来は始まるのです。
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