江戸時代、誰よりも早く世界に目を向け、誰よりも斬新なアイデアを形にしようとした男、その名は「平賀源内(ひらが げんない)」。
薬草学、発明、文学、さらにはエレキテルの復元まで、多才すぎる彼は「江戸の天才」とも呼ばれました。
しかし、その波瀾万丈な人生の末路は、あまりに残酷だったのです。
今回は、平賀源内の破天荒な生涯と、知られざる逸話について紹介していきます。
日本のダ・ヴィンチと呼ばれた「平賀源内」の生涯

平賀源内は、1728年(享保13年)、現在の香川県高松市にあたる讃岐国で生まれました。
父は高松藩の下級武士・白石良房(しらいし よしふさ)、源内は少年時代から、普通ではない才能の片鱗を見せていました。
10歳になるころには、武士の教養である儒学に加え、薬草や鉱物などを研究する「本草学(ほんぞうがく)」に熱中し、家の蔵書を読み漁り独自に知識を吸収していきます。
父の死後、姓を白石から平賀に復姓したと言われています。
長崎留学で開眼!江戸へ
21歳の源内は高松藩に仕官し、蔵番(米蔵の管理役)を務める一方で、藩主・松平頼恭(まつだいら よりたか)に才能を認められ、長崎留学を許されます。
当時、鎖国中だった日本で西洋文化に触れられる唯一の場所が長崎、オランダ商館を通じて医学や科学技術に接した源内は、視野を一気に広げました。
帰国後は薬園管理などに携わりましたが、好奇心に火がついた源内にとっては物足りない日々、「もっと広い世界で学びたい」という思いを抑えきれず、1754年に藩を辞め、江戸へ向かう決意を固めたのです。
江戸に出た源内は、本草学者の田村藍水(たむら らんすい)に師事します。
さらに、全国の動植物・鉱物を集めた日本初の「物産博覧会」を開催し、大きな評判を呼びました。
その成果をまとめた『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』は、日本博物学史に残る名著とされます。
さらに源内は、絵画、小説、発明と多方面で才能を発揮、地獄の閻魔大王が歌舞伎役者に恋をするという奇想天外な『根南志具佐(ねなしぐさ)』をはじめ、数々の滑稽本も手掛けました。
平賀源内と田沼意次、天才と改革者の交錯
そんな源内の才能をいち早く見抜いたのが、幕府の重臣・田沼意次(たぬま おきつぐ)です。
田沼政権は、商業と産業振興を重視した経済政策「殖産興業」を推進しており、源内のような発明家・学者の力を必要としていました。
田沼の庇護を受けた源内は、再び長崎へ留学、西洋の新知識を吸収し、火浣布(不燃布)の開発、秩父の鉱山開発、毛織物や陶器の製造といった実用的な事業に次々と取り組みます。
これらはすべて、田沼の経済政策と歩調を合わせたものでした。
ただし、源内の革新性と田沼の現実的な政策が必ずしも噛み合ったわけではなく、源内の事業はしばしば失敗に終わります。
それでも、二人の挑戦が江戸の学問・産業に新風を吹き込んだのは確かです。
二人の関係は、当時の日本が抱えた「新技術への期待と限界」を象徴していたともいえるでしょう。
発明家・平賀源内
源内といえば、なんといっても「エレキテル」の復元が有名です。
西洋から伝わった静電気発生装置を、日本で初めて復元、江戸の人々は驚きました。
しかし初めの興奮は長続きせず、ビジネスとしては失敗に終わります。
さらに、羊毛製造、鉱山開発、陶器輸出計画なども頓挫し、借金を重ねてしまい、未来を見据えた源内のアイデアは時代には早すぎたのです。
実は、現代に続く「土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、平賀源内のアイデアだといわれています。
夏に売れないウナギのために、鰻屋に「本日 土用丑の日」の看板を出させたところ大ヒットし、江戸中に定着しました。
時代を超えて今も残る、源内のクリエイティブな発想力には脱帽です。
吉原と源内、そして蔦屋重三郎との出会い
1774年(安永3年)、吉原で書店を始めた若き日の蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は、源内に接触します。
蔦屋は吉原の案内書「吉原細見」の差別化を狙い、有名人である源内に序文執筆を依頼、源内は「福内鬼外(ふくうち きがい)」の筆名でこれを引き受けました。
源内が書いた序文は、女性の魅力を独自に論じる破天荒なもので、江戸の人々を驚かせました。
当時、源内は男色家として知られていたため、なおさら世間をざわつかせたのです。
これも蔦屋の話題づくり戦略の一環でした。
ただし、二人の本格的なコラボはこの一度きり、その5年後、源内は獄中死してしまうのです。
獄中死という悲劇
1779年、源内は建築作業を巡るトラブルから大工を殺傷し逮捕、小伝馬町の牢内で破傷風を患い、無念の最期を遂げました。
享年52歳、天才にふさわしくない、あまりに無惨な結末でした。
彼を悼んだ杉田玄白は、「非常の人、非常の事を好み、非常に死する」と碑文に記し、その死を惜しみました。
実は、源内には「生存説」も存在します。
田沼意次の手引きで密かに遠江国相良に逃れ、村医師として長生きした、という説です。
真偽は不明ですが、異才・源内らしいロマンに満ちた伝説ですね。
まとめ
平賀源内は、発明家、作家、画家、学者として、江戸の常識を次々に打ち破った革命児でした。
田沼意次との共闘、蔦屋重三郎との交錯、数々の挑戦と挫折、すべてが彼を伝説にしました。
失敗してもなお挑み続けた源内の生きざまは、現代の私たちに「挑戦する勇気」と「未来を切り開く力」を静かに語りかけています。
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