日本には本当にあった祟りとして語り継がれる3人の人物がいます。
彼らは無念を胸に亡くなり、死後もなお災いをもたらす怨霊と化したと信じられてきました。
災害・疫病・死者の連鎖を引き起こした「日本三大怨霊」とは、一体何者だったのか?
菅原道真:雷と疫病をもたらした学者の怨霊

- 時代|平安前期(845〜903年)
- 地縁|京都・福岡
学問の神様として知られる菅原道真ですが、その名が広く知られるようになったのは、死後に「怨霊」として恐れられるようになったからです。
道真は中流貴族の家に生まれ、幼い頃から詩文に長けた天才として知られました。
政治家としても優れ、宇多天皇・醍醐天皇に重用されて右大臣にまで出世します。
しかし、その急激な台頭を恐れた藤原時平によって無実の罪を着せられ、大宰府へ左遷、名誉を奪われ家族とも引き離され、失意のうちに道真は現地で命を落とします。
その死からまもなく、都では落雷が相次ぎ、藤原時平が39歳の若さで急死、さらに疫病が流行し道真を左遷に関与した多くの貴族が次々と命を落とす異常事態になりました。
これが「道真の祟り」と恐れられるようになります。
最終的に朝廷は道真の怒りを鎮めるため、北野天満宮を建立し、神として祀ることで災厄の収束を図りました。
今日では学問の神「天神さま」として広く信仰され、全国の天満宮では受験シーズンになると多くの参拝者が集まります。
平将門:首が飛んだ?恐怖の関東怨霊伝説

- 時代|平安中期(〜940年)
- 地縁|関東・東京大手町
関東の地の神としても崇められる平将門は、桓武天皇の血を引く名門・桓武平氏の出身。
京での官職経験を持ちつつ、父の死を機に関東へ戻り、地元豪族と激しい抗争を繰り広げました。
将門は関東の民衆を味方につけ、ついには自らを「新皇」と名乗り、独自政権の樹立を宣言します。
これは明確な朝廷への反逆行為とされ、藤原秀郷・平貞盛らによる討伐軍が編成されます。
激戦の末、将門は額に矢を受けて戦死、その首は平安京に運ばれて晒し首とされました。
そしてここから異変が起きます。
将門の首は腐ることなく目を見開き続け、夜になると「体を返せ」と叫び、ついには空を飛んで関東まで戻ったという伝説が生まれました。
その首が落ちた場所に築かれたのが、東京・大手町にある「将門塚」です。
この塚は何度も移設が試みられましたが、関係者の死や事故が相次ぎ、今も「動かしてはいけない場所」とされています。
現在、関東一円では将門を神として祀る神社も多く、勝負の神、関東守護神として信仰されています。
崇徳天皇:史上最強の怨霊と呼ばれた流刑の元天皇

- 時代|平安末期(1119〜1164年)
- 地縁|香川・京都
崇徳天皇は第75代天皇としてわずか3歳で即位しましたが、父・鳥羽上皇から「実子ではない」として冷遇され、早々に退位させられました。
後白河天皇との政権争いに敗れ、「保元の乱」で敗戦、讃岐(現在の香川県)に流されます。
崇徳上皇は流刑先で仏道に帰依し、血で経典を書くほどの執念をもって朝廷に訴えましたが、写経は「呪詛」と見なされ拒絶されます。
この仕打ちに深く絶望した崇徳上皇は、鬼のような姿となり怨霊と化したとされます。
その死後、都では火災、疫病、関係者の急死などが相次ぎ、これらが「崇徳院の祟り」と囁かれました。
朝廷はようやく彼を罪人から神へと祭り上げ、香川県の白峰寺を中心に供養が始まります。
それでも「崇徳は大天狗と化し、今も朝廷を見下ろしている」という伝説は消えず、縁切り神社としても有名な八栗寺など、全国には崇徳天皇を祀る場所がいまも数多く残っています。
まとめ
彼らは怨霊として恐れられながらも、最終的には「神」として祀られる存在になりました。
それは日本人にとって、恐れと敬いが紙一重であること、そして「無念の死を遂げた者を決して忘れない」という死生観の表れともいえるでしょう。
現代に生きる私たちにとって、これらの伝説はただの怪談ではありません。
人の心がどれほど強く、また災いにもなり得るか、そのことを、三大怨霊の存在は今も静かに語りかけているのではないでしょうか…。
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