観光地や駅前で、顔を隠して無言で立ち「お布施をお願いします」と差し出すお椀、どこかありがたそうな雰囲気だけど、よく見ると何か違和感…。
そんなふうに感じたことはありませんか?
今回は、そんな街中で見かける「お坊さん風」の人々の正体について、そして本物の僧侶との違いについて紹介します。
彼らは本当にお坊さんなのか?
私たちが駅前や観光地でよく見かけるお坊さん風の人物、実は彼らの多くは正式な僧侶ではありません。
宗教法人に属しておらず、仏教の修行を受けたわけでもない、いわば「無資格のお坊さん」なんです。
中には得度(とくど)と呼ばれる、僧侶としての名前をもらう儀式だけは受けた人もいますが、その後に必要な修行や資格取得はしていないことがほとんどです。
なぜそんなことをするのかといえば、僧侶らしい装束を身につけ、それっぽく立っているだけで「ありがたそう」と思われ、お布施がもらえてしまうからに他なりません。
これを托鉢(たくはつ)と勘違いする人も多いですが、本物の托鉢は修行の一環であり、表面的なパフォーマンスとはまったく異なります。
本物の僧侶は警察署に申請し、正式な許可を得たうえで活動を行っています。
基本的には複数人で、旗や幟(のぼり)を掲げ、「〇〇宗の修行中です」と明示しながら行動するのが一般的です。
顔を隠さず、通行人に挨拶しながらお経を唱える姿は、街中でよく見る「無言の一人ぼっち僧」とは明らかに違います。
葬儀にも!?無資格フリー僧侶の存在
驚くべきことに、こうした無資格のお坊さんが、葬儀の現場にも登場するケースがあります。
たとえば、格安の葬儀プランを依頼すると、「僧侶を手配します」と言われることがありますが、実際に来るのは、住職でもなければ宗派にも属していない、いわゆる「フリー僧侶」のような存在であることも。
彼らは寺を持たず、複数の葬儀業者と契約して活動しています。
宗派ごとのお経を練習しており、依頼された宗派に合わせて、それっぽくお経を唱えることができます。
しかし、修行を経ていないため、言葉がはっきりせず心に響く読経ができないケースも少なくありません。
実際、参列者から「何を言っているのかわからない」「ありがたみがない」と感じられてしまうことも多く、それが不評の声につながっているようです。
本物の僧侶は、日々の修行の中で何時間もお経を唱える訓練を重ねています。
1日3回、何時間も同じお経を繰り返すことで、声に力が宿り、その響きが人の心に届くようになるのです。
だからこそ、表面だけを真似た偽物との違いは、実際に接したときに明確に現れます。
僧侶らしさとは、資格以上に心に表れるもの
では、私たちは街中で出会うお坊さん風の人が本物かどうか、どうやって見分ければいいのでしょうか?
確実な答えを出すのは難しいものの、ひとつ言えるのは「人としての接し方」がもっとも大きな判断材料になるということです。
本物の僧侶は、お経を唱える技術だけではなく、そこに込める心や、接する人々への敬意を大切にします。
葬儀の場であれ、修行の托鉢であれ、来てくれた人にきちんと目を向け、丁寧に接する姿勢が自然とにじみ出るのです。
反対に、街角で顔を隠し、何も語らず、お金だけを求めるような姿には、僧侶としてのありがたさは感じられません。
本来の托鉢は、民家を一軒一軒まわり、声もかけずにお経を唱えていくものです。
住人が気づけば施しをし、気づかなければそのまま去る。
その静かな姿勢こそが、仏教における修行の本質を表しているのです。
形式だけを真似た存在にだまされないためにも、私たちは「ありがたさとは何か」「本当の僧侶とはどうあるべきか」という視点を持つことが大切です。
まとめ
駅前や観光地で見かける「無言のお坊さん」の多くは、宗教的な資格や修行の経験がない「なんちゃって僧侶」である可能性が高いことが分かりました。
彼らの存在は、私たちが「ありがたそう」「神聖そう」と感じてしまう外見や雰囲気を利用して、金銭を得ようとするビジネス的な側面すら含んでいます。
しかし、ありがたさとは格好や雰囲気ではなく、その人の心や行動からにじみ出るものです。
私たち自身も、ありがたさを感じ取れる目と心を持って、日々の出会いを見つめていきたいものですね。
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