もし、あなたが無実の罪で死刑を宣告されたら…。
1948年、戦後間もない混乱の中で起きた「帝銀事件」は、日本の司法史に永遠の謎を残しました。
12人が毒殺された凶悪事件、その後逮捕されたのは一人の画家。
しかし彼の死後も「冤罪では?」という声は消えることなく、再審請求はなんと「11回すべて却下」という異常事態となります。
なぜ彼は犯人に仕立てられたのか?私たちは今もなお「本当の犯人」を知らないままなのか?
今回は、事件の経緯から不審な点、「国家の闇」まで解説します。
帝銀事件とは

1948年1月26日、東京・豊島区の帝国銀行椎名町支店に現れた一人の男が「厚生省技官」を名乗り、行員らに「赤痢の予防薬」と称して毒物を飲ませ、12人が死亡、4人が重体となる事件が発生。
犯人は現金と小切手を奪って逃走、戦後日本を震撼させたこの事件は「帝銀事件」と呼ばれ、いまなお日本犯罪史上、最大級の謎をはらむ未解決事件として語り継がれています。
この事件が特異なのは、その犯行手口です。
犯人は自ら薬を飲むふりをして信頼を得たうえで、猛毒の青酸化合物(しかも遅効性の青酸ニトリールと推測される)を使い、全員に一斉に服用させました。
まるで軍の訓練のような冷静さと計画性で、旧日本軍の秘密部隊・731部隊の関与がささやかれたのも当然でしょう。
事件直後には類似の未遂事件も2件発生しており、完全に計画された犯行だったといえます。
平沢貞通という犯人が生まれるまで
事件から半年後、捜査本部は「名刺」に着目します。
犯人が使った名刺は厚生省の本物の職員のもので、名刺配布記録をたどった結果、北海道に住む画家「平沢貞通」の名前が浮上したのです。
彼は皇室にも絵を献上したことがある実力派でしたが、事件当時は春画制作などで副収入を得ていたと言われていました。
平沢には小切手換金現場の目撃情報や人相書きとの一致などいくつかの共通点がありましたが、決定的証拠は一切ありませんでした。
それでも彼は逮捕され、約1か月後に自白、しかしその後の裁判では「拷問的な取調べによる強要だった」と自供を撤回します。
実際、平沢は過去のワクチン接種による精神疾患(コルサコフ症候群)を患っており、虚言癖がありました。
にもかかわらず、自白は当時の捜査慣行として非常に重視され、1950年、死刑判決が下されます。
国家ぐるみの隠蔽?再審が拒まれ続けた理由
平沢は一貫して無罪を主張、1962年以降、支援団体が発足し、11回にも及ぶ再審請求が行われましたが、すべて却下されました。
その背景には、軍関係者説やGHQの圧力の存在、さらには国家ぐるみでの隠蔽といった陰謀論が渦巻いています。
中には、当初捜査していた軍関係者が突如リストから外されたり、軍の機密研究である青酸ニトリールの存在が意図的に無視されたのでは?との指摘も…。
再審請求の背景には、このような「疑問」が積み重なっていました。
- 被害者による面通しでは「犯人と違う」と証言する者が過半数
- 平沢宅にあった毒物は「即効性」であり、犯行に使われたとされる遅効性の毒とは一致しない
- 出所不明の大金の存在も、実は春画販売による可能性が後に証明
その後、平沢の死刑は一度も執行されず、最終的に1987年に95歳で獄中死してしまいました。
その間、獄中で1300点以上の絵を描き続け、「獄中画家」として知られるようになります。
支援者の中には、平沢のために養子縁組をして再審請求を続けた人物もいましたが、彼もまた世間やメディアの重圧に耐えきれず、自ら命を絶っています。
事件後、妻や子どもたちは世間のバッシングから逃れるため、平沢姓を捨てて離婚・戸籍抹消を選びました。
一部では「家族も彼を犯人だと疑っていたのでは?」との見方もありますが、妻が獄中の平沢にひそかに仕送りをしていたという記録も残っており、その感情は複雑なものだったようです。
まとめ
帝銀事件は、単なる殺人事件ではありません。
時代背景、国家の関与、そして刑事司法制度の闇が複雑に絡み合い、いまだ真相が解明されていない戦後最大のミステリーです。
証拠なき自白偏重の裁判、再審すら許されなかった男の運命、消された真犯人の可能性…。
この事件は「真実が必ずしも裁かれない」ことを日本社会に突きつけました。
そして今こそ、改めて問い直すべきなのです。
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