1945年、第二次世界大戦が終わった後も、密林の中で約30年間任務を遂行し続けた予備陸軍少尉・小野田寛郎。
なぜ彼は降伏せず、たった一人で戦い続けたのか?そして帰国後、どんな人生を歩んだのか?
彼の驚くべき生涯を、今改めて掘り下げてみましょう。
小野田寛郎の背景と任務遂行の決意

1922年 (大正11年)、和歌山県に生まれた小野田寛郎は、1942年12月(満20歳)の時に旧日本陸軍に入隊。
特別な諜報・ゲリラ戦術を学ぶ陸軍中野学校を卒業し、1944年に残置諜者および遊撃指揮の任務を与えられ、フィリピン・ルバング島へ派遣されました。
彼に与えられた任務は、ゲリラ戦の継続と情報収集、そして「決して自決も降伏もしない」こと。
特殊な訓練を受けた彼にとって、それは絶対の使命でした。
1945年、日本はポツダム宣言を受諾して降伏しましたが、ジャングルで孤立していた小野田には、その情報が届きませんでした。
アメリカ軍が撒いたビラや拡声器での呼びかけも、すべて敵の謀略だと考え、伍長島田庄一、上等兵小塚金七らと共にルバング島に残り続けました。
3人は作戦を継続しましたが、仲間たちは戦闘や病気、投降で次第に減り、最終的にたった一人で密林に残り続けることになります。
ルバング島での過酷な生活と発見
密林での生活は過酷を極め、食料は狩猟や農作物の窃取、雨水での生活を強いられました。
弾薬の手入れ、衣服や靴の修理もすべて自力で行い、常に飢餓と孤独、死の恐怖と隣り合わせの日々でした。
彼の日々の生活は、細心の注意と計画によって管理されており、昼間は身を隠し夜間に活動を行っていました。
フィリピンの軍隊や警察は小野田を見つけ出そうと試みるも、時に銃撃戦になることもありました。
上官の命令を胸に、小野田はたった一人で孤独な戦争を生き抜きます。
彼が受け取った最後の命令、それは戦闘を続けること、そして絶対に自らの命を絶つことはないというものでした。
1974年、日本人冒険家・鈴木紀夫が小野田を発見、戦争が終わったことを伝えますが、小野田は信じませんでした。
小野田が武器を捨てるために必要だったのは、彼のかつての上官からの正式な命令解除でした。
日本政府は当時の上官・谷口義美元少尉をフィリピンに派遣し、直接命令解除を伝えます。
ようやく小野田は銃を置き、29年ぶりに帰国を果たしました。
帰国は大きな社会的反響を呼び、豊かで平和になった日本社会において、小野田の存在は異質でありながらも、多くの人々の尊敬を集めました。
帰国後の人生と小野田寛郎が遺したもの
小野田は、半年後にブラジルへ移住し牧場経営に従事、その後日本に戻り、青少年向けのサバイバル教育「小野田自然塾」を開設しました。
現代の若者に生き抜く力を伝えるべく、教育活動に情熱を注ぎます。
2014年1月16日、小野田寛郎は老衰のため91歳でこの世を去りました。
彼の死は世界中で報じられ、今なおその生き様は語り継がれています。
まとめ
小野田寛郎は、ただ命令に従い続けた軍人ではありませんでした。
彼は極限状態であっても自らの信念を曲げず、生き抜き、そして時代に対して人間の強さを示しました。
その生き様は、今を生きる私たちにも本当に大切なものを静かに問いかけ続けています。
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