柳原白蓮(やなぎはらびゃくれん)、彼女の名前を聞くと、華族令嬢としての優雅な生活を想像する方も多いかもしれません。
しかし、その実態は壮絶で波乱に満ちたものでした。
白蓮は自らの人生を切り開くために、数々の試練と向き合い、そのたびに新たな道を見つけ出してきたのです。
そんな彼女の人生、その魅力と儚さに迫ります。
華族の家に生まれた柳原白蓮の波乱万丈な人生
柳原白蓮は、歌人としてはもちろん「大正三美人」としても名高い美貌の持ち主でした。
明治18年(1885年)、柳原白蓮、本名・柳原燁子(あきこ)は、伯爵柳原前光とその愛人の間に生を受けます。
誕生後間もなく正妻の娘として迎えられるものの、その後すぐに里子に出されるという波乱人生がスタートするのです。
10歳で遠縁の北小路家に養子に出された燁子は、親元を離れる孤独な幼少期を過ごしました。
14歳で学習院女学部に入学した燁子は、学業で優れた成績を収めましたが、16歳で北小路質武との縁談が持ち上がり結婚することになります。
この結婚は、燁子にとって過酷な日々の始まりでした。
夫からの暴力や家族からの孤立、そして子育ての喜びさえ奪われる日々。
愛情のない結婚生活に耐えかね、燁子は最終的に柳原家に助けを求め、明治38年(1905年)に離婚が成立しました。
しかし、離婚後も燁子は柳原家の隠居所に閉じ込められ、外出も許されない厳しい監視下で生活を余儀なくされます。
この間、姉の信子が差し入れてくれた古典や小説に没頭し、読書に明け暮れる日々が4年間続いたと言われています。
自由を求めた再出発と歌人への道
燁子の人生が再び動き出したのは明治41年(1908年)、兄の義光夫妻の元に預けられたことがきっかけでした。
この時、24歳の頃でした。
この環境で彼女は東洋英和女学校に編入し、寄宿舎での生活を楽しむようになります。
この時期に出会った村岡花子(後の「赤毛のアン」翻訳者)とは親友となり、二人の友情は彼女にとって大きな支えとなります。
また、この頃から短歌への情熱を抱き始め、竹柏会に入門します。
短歌を通じて自己表現の喜びを知った燁子は、次第に「柳原白蓮」という雅号で歌人としての活動を本格化させていきます。
明治43年(1910年)、燁子は26歳で九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚。
豪華な生活を期待される一方で、彼女は家庭内の複雑な人間関係や夫の女性問題に悩まされる日々を送ることに。
気を遣う生活を送っていましたが、久保猪之吉、その妻で俳人の久保より江と交流し、福岡社交界の華としても知られるようになりました。
こうして、短歌に逃げ場を見つけ、詠み続けることで自分自身を支えました。
大正4年(1915年)31歳の頃には、画家・竹久夢二が挿絵を手掛けた豪華な装丁の歌集「踏絵」を自費出版、大正6年(1917年)には、大阪朝日新聞で「筑紫の女王燁子」というタイトルの連載記事を載せ、大きな反響を呼びます。
そして、大正9年(1920年)、燁子は運命の人「宮崎龍介」と出会います。
7歳年下の龍介は、政治運動に情熱を注ぐ若きリーダーでした。
二人は文通を重ねるうちに愛を育みますが、周囲の反発を受けることに。
大正10年(1921年)、白蓮は「絶縁状」を新聞に掲載し、夫との決別を公に宣言。
大阪朝日新聞に、「愛なき結婚と夫の無理解が生んだ妻の苦悩と悲惨の告白」というタイトルの記事には、白蓮の苦悩が赤裸々に綴られていました。
「あなたに永遠のお別れを告げます。私は、私の個性の自由と尊貴を守り培うために、あなたのもとを離れます。」
絶縁状は世間を騒がせ、その後、7歳下の宮崎龍介と駆け落ちします。
白蓮は経済的困窮に苦しむものの、新しい愛と平和な家庭生活を築きはじめました。
その一方で平和活動にも力を注ぎ、歌人としても活躍を続けます。
昭和42年(1967年)、白蓮は81歳でその生涯を終えましたが、彼女の短歌や人生哲学は多くの人々の心に刻まれています。
まとめ
柳原白蓮の人生は、一言で言えば「波乱万丈」そのものでした。
愛を求め、自由を求めて数々の試練に立ち向かった彼女の姿には、現代にも通じる勇気と自己表現への情熱が感じられます。
白蓮が生きた時代背景や彼女の短歌に触れることで、私たちも「本当の幸せ」について改めて考えさせられるのではないでしょうか。
彼女の生涯は、まさに「儚くも美しい愛の物語」そのものだったのです。
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