1923年9月1日に発生した関東大震災は、死者・行方不明者10万人以上という未曾有の被害をもたらしました。
しかし、この大災害をさらに悲劇的にしたのは、自然ではなく人間の心でした。
根拠のないデマが広がり、無辜の人々が犠牲となったのです。
その中で、命を賭して人々を守った警察署長・大川常吉の行動は、100年を経た今もなお強い教訓を与えてくれます。
震災の混乱と広がる流言飛語

大地震により東京・横浜を中心に街は壊滅状態となり、火災や建物倒壊で人々は極限の恐怖にさらされました。
そんな中で流布されたのが「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という流言でした。
出どころは不明ですが、司法省や内務省の記録によれば、横浜刑務所の囚人による略奪行為が、囚人から鮮人へと誤って伝わったことが一因とされています。
通信も交通も途絶した状況では、噂は瞬く間に人々の間を駆け巡り、恐怖と敵意を増幅させました。
やがて各地で「自警団」が結成され、通行人に15円50銭や、どじょう汁といった言葉を言わせ、発音が不自然だと暴力を加える事件が多発しました。
その結果、朝鮮人のみならず中国人や日本人方言話者までが犠牲となり、数千人規模の虐殺があったと推定されています。
自然災害に続いて広がったのは人災でした。
鶴見署長・大川常吉の決断
そんな中、横浜市鶴見分署の署長だった大川常吉(1877〜1940)は、命を懸けて異なる行動を選びました。
9月3日、デマに煽られた約1000人の民衆が「朝鮮人を引き渡せ」と署を取り囲みました。
大川は署内に約300人の朝鮮人と70人の中国人を保護していましたが、警察官は交番勤務を含めわずか30人、圧倒的不利な状況でした。
暴徒に対して、大川は「朝鮮人が毒を入れたというのは根拠のないデマである」「デマを信じるな、無実の人々を殺してはいけない」と訴え続けます。
そして、疑わしいとされたビンの中身を自ら飲んで見せ、毒など入っていないことを証明しました。
大川は群衆に向かって、大声で言ったのです。
「鮮人に手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先きに片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さないぞ」
朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか?の問に、大川氏は「その場合は切腹して詫びる」と毅然と告げました。
その言葉に押され、自警団は退散します。
さらに翌日の臨時町議会では、地元議員から「猛虎を不完全なおりに入れておくようなものだ」と追放を求められましたが、大川は「反乱の事実は全くの流言飛語」と断言し、「警察の手を離せば全員虐殺される」と拒否しました。
彼にとって警察の本分は命を守ることであり、職務と信念の両面で揺るがなかったのです。
語り継がれる勇気と警鐘
戦後、1953年には在日朝鮮人団体によって横浜市鶴見区の東漸寺に大川常吉の顕彰碑が建てられました。
碑文には「死を賭して三百余名の生命を救護した」と刻まれています。
韓国から訪れる研究者や若者も増え、大川の行動は国境を超えて人道的勇気として評価されています。
韓国の写真家が慰霊碑を巡り、写真展を通じて「過去の悲劇から未来を築く」メッセージを発信していることも象徴的です。
現代においても、SNSやネット上のデマが社会を混乱させる事例は後を絶ちません。
関東大震災の悲劇は、情報を見極める冷静さと少数者を守る勇気の重要性を私たちに教えてくれます。
まとめ
デマを信じた民衆が自警団を結成し、多くの無辜の命が奪われた一方で、大川常吉のように命を懸けて人々を守った人物も存在しました。
その行動は100年を経た今も、人間としての倫理と勇気を示すものです。
歴史を忘れず、同じ過ちを繰り返さないために、私たちはデマの危険性と情報を見極める責任を常に意識しなければなりません。
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