芸術は男の世界と言われた江戸時代、そんな中で異彩を放つ女性絵師がいます。
その名は、葛飾応為(かつしかおうい)、あの葛飾北斎の実の娘です。
父の才能を受け継ぎ、そして越えようとした彼女の人生には、光と闇のドラマがありました。
父・葛飾北斎の娘として生まれた運命

応為の本名は「お栄(おえい)」、父・北斎の後妻との間に生まれた三女とされています。
江戸後期に生まれ、絵に囲まれた環境で育った彼女は、幼い頃から自然と筆を持ち、父の技を見て学びました。
北斎といえば『富嶽三十六景』で知られる日本美術史上の巨匠、その娘というだけで周囲の期待も大きかったでしょう。
しかし、父のように自由奔放で奇人として知られた北斎の家は、一般家庭とはかけ離れたものでした。
引越し回数は生涯で93回、部屋の中は常に散らかり放題、それでも親子で絵筆を握り、食べることより描くことを優先する、そんな生活を送っていたと伝わります。
夫をも笑い飛ばした男勝りな性格
お栄は一度、町絵師・南沢等明(みなみざわとうめい)に嫁ぎます。
ところが、その夫の腕前を見て「下手ね」と笑ってしまったのだとか…絵師同士の結婚ではありますが、天才・北斎の娘にとって、夫の絵は物足りなかったのでしょう。
さらに「筆さえあれば生きていけるのに、なぜ家事をしなきゃいけないの?」と公言するような性格、時代的に考えてもこれはかなり異端です。
結局、二人はすぐに離縁、お栄は実家に戻り以後は生涯独身を貫きました。
父と娘、奇人親子の共同生活
北斎と応為の関係は、師弟でありながら深い信頼に満ちていました。
ふたりの暮らしぶりを描いた「北斎仮宅之図」では、コタツに入りながら筆を取る北斎と、その傍らで父を見つめる応為の姿が描かれています。
北斎が「わしの美人画は、応為には敵わない」と語ったという逸話も残っています。
父が己の才能を認めた唯一の存在、それが娘の応為だったのです。
「応為」という名には、いくつかの説があります。
ひとつは、北斎が娘を「おーいおーい」と呼んでいたことから付けられたという説、もうひとつは、父の画号「為一」に応えるという意味で名乗ったという説です。
いずれにせよ、応為の名前には常に父・北斎の存在が寄り添っており、彼女にとって絵を描くことは、父との会話そのものだったのかもしれません。
性格は豪快で男勝りでしたが、応為はいつも髪をきちんと整え、父を大切に思い最後まで支え続けます。
ただし、掃除だけはどうしても苦手で家が汚くなると新しい家へ引越す、その繰り返しでしたが、二人は不思議と幸せそうに暮らしていたと伝わっています。
父を超えたと言われた天才
応為の代表作として有名なのが「吉原格子先之図(よしわらこうしさきのず)」です。
格子越しに光を浴びる遊女たちを描いたこの作品は、女性の内面に潜む強さと哀しみを見事に表現しています。
彼女の美人画は、女性が抱える孤独や誇り、そして生きる気高さ、その全てが筆先に込められています。
だからこそ、男性絵師には出せない情感が宿っているのです。
応為は、父の最晩年まで寄り添い、共に絵を描き続けました。
彼女が手掛けた奉灯(神社に供える灯火)の絵はあまりに美しく、依頼主が神前に奉納するのを惜しんで自宅に飾ったという逸話もあります。
当時は「女が絵を描くなんて」と言われた時代、それでも彼女は筆を置かず、己の感性を貫きました。
もし応為が男性として生まれていたなら、彼女の名は北斎に並ぶ存在として、日本美術史の中心に記されていたことでしょう。
応為の作品には署名(落款)が少ないため、長く「北斎の助手」としてしか語られてきませんでした。
しかし近年、彼女の画風、とくに光の描写や女性の内面表現が再評価され、「応為こそ江戸の女性美を描いた最初の芸術家」として注目されています。
北斎が世界の巨匠なら、応為は心の巨匠、父が自然の力を描いたなら、娘は人間の心を描きました。
その筆跡には、父を敬いながらも、自分の道を貫いた女性の強さが滲んでいます。
まとめ
葛飾応為の人生は、華やかでも穏やかでもありませんでした。
夫には呆れられ、世間には理解されず、それでも筆を手放さなかったそんな彼女の姿は、まさに江戸の女性アーティストの原点と言えるでしょう。
今なお、彼女の描く女性たちは時を超えて語りかけてきます。
それは、父・北斎の影を越えて自分の光を見つけた、ひとりの女性の魂の声なのです。
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