戦前の日本、そこには政治や軍部をも動かす、巨大な経済力を誇った「四大財閥」の存在がありました。
三井、三菱、住友、安田、これらの名前を聞いたことがある人は多いと思いますが、その実態は想像以上に規格外でした。
彼らがどれほど強大な影響力を持ち、日本の近代史にどんな足跡を残したのか紹介します。
四大財閥って何?

財閥とは、特定の家系や一族が持株会社や銀行を通じて多数の企業を支配する巨大経済グループのことです。
銀行を中心に、製造、貿易、鉱山、保険、不動産、新聞まで網羅した経済帝国といった方が正確です。
特に戦前の日本では、これらの財閥が国家予算を超える規模の資本を握っていたとも言われ、政治や軍事政策にも深く関与していました。
そして、戦前の日本で特に強い影響力を持っていたのが、「三井財閥」「三菱財閥」「住友財閥」「安田財閥」です。
- 三井財閥|呉服商「越後屋」から始まり、日本初の銀行設立など革新的な動きを見せた老舗。
- 三菱財閥|岩崎弥太郎による起業で、海運・造船をはじめとした重工業に強み。
- 住友財閥|銅山経営からスタートし、金融・化学などに発展。
- 安田財閥|金融を軸に台頭し、特に保険・銀行部門に大きな影響力を持った。
戦前の四大財閥が持っていた資産規模は、もはや個人や家族のレベルを超えて国家級と表現するほかありません。
たとえば三菱財閥の総資産は、戦前の日本国家予算に匹敵したとも言われています。
特に三井と三菱は、戦争特需や海外との貿易を通じて巨額の富を築き上げ、現代の感覚で換算すれば数千億円〜兆単位に達する規模、これがすべて一族の意思一つで動かせるという事実に驚かされます。
また、一部の財閥では、チャーター船や自家用船を所有していた例もあり、令和で言うところのプライベート・ジェットの走りですね。
政治すら動かした?戦後の終焉とその後
四大財閥は、政府の政策決定にすら影響を及ぼしていたと言われています。
たとえば、昭和初期の「金融恐慌」では、安田財閥が破綻寸前の銀行を吸収し、金融システムを救済、事実上、中央銀行並みの役割を果たしていたのです。
また、陸軍や海軍への献金や資材提供も行い、軍需と共に成長していく構図が完成、ここに財閥と国家の共依存という強固な関係性が見られます。
これにより、財閥は政府にも強い影響力を持ち、国策への関与、戦時体制への貢献、さらには選挙資金の提供なども行っていたと言われています。
しかし、第二次世界大戦の敗戦に伴い、アメリカ占領軍GHQは日本の軍国主義の根幹に財閥があると見て徹底した解体を命じました。
株式の保有を禁止し、持株会社は解体、経営者は公職追放…こうして表向きには四大財閥は「消滅」しました。
しかし、実態はそう簡単ではありません。
財閥企業は別会社に分割されても、旧経営陣が「相談役」や「顧問」として残り、事実上の支配構造が維持された例も多かったのです。
GHQが帰国した後、それらは「企業グループ」「系列」として再編され、昭和後期には再び経済界の中枢に返り咲きます。
戦後政治と財閥人脈の密接な関係
特に注目すべきは、旧財閥出身者が戦後政治に深く関わっている点です。
戦後の総理大臣経験者のなかには、三井・三菱系企業の出身者や役員経験者が何人も存在します。
また、政治献金の多くがこれらグループ企業から出ていた時期もあり、「経済界が政治を支配していた」との声すらありました。
たとえば経団連の初代会長は住友グループ出身者であり、三菱や三井のトップが政財界の黒幕と噂されたこともありました。
つまり、「戦前ほどではないにせよ、今も政治を動かせる力を持っている」のが実態なのです。
現代日本で「財閥」という言葉は使われなくなりましたが、その影響は今もなお強く残っています。
住宅街に建つ「三井のリハウス」や「三菱地所のマンション」、銀行の窓口にある「三菱UFJ」や「三井住友」の看板、それらはすべて財閥のDNAを受け継ぐものです。
戦後の日本が「奇跡の復興」を遂げる過程で、皮肉にも財閥の再編成が加速しました。
GHQが切り離したつもりの構造は、形を変えて生き残り、今もなお巨大な経済力と影響力を持っています。
まとめ
戦前日本を支え、そして動かした「四大財閥」、彼らの規格外のスケールと、その暮らしぶりには驚かされるばかりですが、同時にそこから浮かび上がるのは、経済と政治、企業と個人の関係のリアルです。
私たちが普段何気なく目にする大企業の背景には、こうした歴史の積み重ねがあります。
規格外の存在から学べること、それは「資本の力」と「社会の変化」が織りなすドラマそのものなのです。
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