愛知県の渥美半島と三重県の志摩半島、この2つの半島を結ぶ橋があれば、観光・物流・防災の面でも大きなメリットがあると感じる方も多いはずではないでしょうか。
海を挟んでわずか20kmほどの距離なのに、なぜ今も橋は架けられていないのでしょう?
実はそこには、単なる建設コストや需要の問題だけではなく、国土政策の変遷や地域間の力関係まで複雑に絡み合った深い理由があるのです。
今回は、伊勢湾に橋がかからない本当の背景をわかりやすく紹介します。
60年前に始まった「夢の架け橋」構想とは?

伊勢湾口道路、これは愛知県の渥美半島と三重県の志摩半島を結ぶ、全長約90kmにも及ぶ道路計画の通称です。
その構想は実に1964年(昭和39年)にさかのぼります。
きっかけとなったのは、国連調査団のアーネスト・ワイズマンによる報告書です。
「伊勢湾をぐるりと取り囲む高規格道路の整備が、中部地域の経済発展には不可欠だ」という提言でした。
以後、この構想は「伊勢湾口道路」として政府内でも検討が続けられ、1990年代には太平洋新国土軸構想の中で海峡横断プロジェクトの一環として再注目されることになります。
しかし60年経った現在も、橋どころか着工の気配すらありません。
なぜ実現しなかったのでしょうか?
なぜ実現しない?表向きのコストと需要の問題、伊勢湾口道路が実現に至らなかった最も分かりやすい理由は、莫大な建設費と見込まれる利用者数の少なさです。
国の試算によれば、伊勢湾口を橋や海底トンネルでつなぐだけで数千億〜1兆円規模の費用がかかるとされます。
さらに、そこに至るためのアクセス道路(両半島の付け根までの延伸道路)まで含めると、総延長90kmにおよぶ巨大プロジェクトです。
一方で、想定された交通量は1日あたりわずか数百台レベル、これでは採算がまったく合わず、2013年には国による調査も正式に打ち切られてしまいました。
しかし、本当にそれだけが理由なのでしょうか?
伊勢湾口道路構想が、建設コストと需要不足だけで止まったわけではありません。
その背後には、国の開発方針の変化と、それに振り回された地域の思惑がありました。
1987年の第四次全国総合開発計画(四全総)では、東京一極集中を是正する多極分散型国土という理想が掲げられました。
中部圏の核として名古屋の強化が図られ、中部国際空港やリニア中央新幹線といった超大型プロジェクトが進行する一方で、三重県南部のような周辺地域は優先順位を下げられてしまったのです。
さらに、1998年の21世紀国土のグランドデザインでは、伊勢湾口道路を含む太平洋新国土軸が打ち出されますが、軸という抽象的な概念が国民に浸透せず支持を得られませんでした。
国民が求めていたのは「自分たちの生活がどう変わるか」です。
しかし国土軸はあくまで国家レベルの話、結果的に予算や計画は分散し各自治体間の主導権争いが激化します。
地域をつなぐはずの構想が、逆に「地域間の分断」を深めてしまったのです。
いま再び注目される「橋」の価値とは?
とはいえ、伊勢湾口道路の価値が完全に失われたわけではありません。
実は現在でも、「三遠伊勢連絡道路」という名称で中部圏開発整備地方協議会が重点事業の一つに位置づけています。
この構想は、伊勢湾口部を通じて静岡・愛知・三重をつなぐ90kmの広域ネットワークで、名古屋に頼らず地域ごとの独立した発展を目指す分散型社会の骨格ともいえる道です。
さらに、防災の観点でも重要で、現在の中部~関西の交通インフラは東名高速や名神高速などに依存しています。
大地震や津波で被害を受けた際の「代替ルート」として伊勢湾口道路は非常に有効だと期待されているのです。
現在、東海南海連絡道や紀勢自動車道の整備も進んでおり、「ここに橋があれば便利」という感覚は、確実に現実へと近づきつつあるのです。
まとめ
伊勢湾口道路は、経済的な採算性や地形の制約だけでなく、時代ごとの国策や地域のパワーバランス、さらには国民意識の変化といった多層的な要因によって止まってきたプロジェクトです。
しかし一方で、60年経った今なお、地域開発・防災・観光振興の観点からその意義は再評価されており、かつての夢の架け橋は静かに息を吹き返そうとしています。
ここに橋があれば…という問いは、ただの空想ではなく地域の未来を左右する問いになっているのではないでしょうか。
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