戦争は1945年8月15日に終わった…北の大地ではその日を過ぎても戦火が消えていませんでした。
北海道の北、かつて日本領だった南樺太(サハリン)で、若き女性たちが命をかけて通信を守り、悲劇的な最期を遂げた「真岡郵便電信局事件」、今なお語り継がれるこの事件には、どんな事実があったのでしょうか…?
終わらないソ連の侵攻

1945年8月15日、昭和天皇による玉音放送により、日本は連合国に対して無条件降伏を宣言しました。
これによって「戦争は終わった」と誰もが思ったはずでした。
しかし、実際には終わっていなかったのです。
ソビエト連邦(現ロシア)は、8月9日に日本に宣戦布告、北海道の北、日本領だった南樺太(サハリン南部)へと進軍し、終戦宣言後も侵攻の手を止めませんでした。
これは国際法違反ともされる行為ですが、当時のスターリン体制下では勝者の論理がすべてでした。
特に狙われたのが、南樺太の要衝「真岡(もおか)町」、ここに設置されていた真岡郵便電信局が、のちに歴史的悲劇の舞台となるのです。
通信を守る使命感、交換手たちの決断
真岡郵便電信局では、若い女性たち(最年長でも24歳)が電話交換手として勤務していました。
当時の電話は今のようにダイヤルやボタンを押すのではなく、受話器を上げると交換手につながり、行き先を伝えることで通話が成立していました。
そのため、電話交換手は地域全体の通信インフラを支える「要」の存在であり、戦時中でも重要任務とされていたのです。
日本軍から避難命令が出され、一般市民は次々と北海道へ向けて疎開していきます。
しかし、交換手たちは悩みながらもこう考えました。
「私たちが疎開すれば、連絡が取れなくなり、住民の命が危険にさらされる」
「業務を投げ出すことは、町を見捨てることになる」
家族との別れ、恋人との別れ、そして命の危険を承知の上で多くの交換手が残留を決意しました。
砲撃の中でつないだ最後の通信
1945年8月20日早朝、ついにソ連軍が真岡町に侵攻、局舎も砲撃を受けるようになりました。
逃げ場のない局内で、彼女たちは北海道の郵便局に最後の通信を送りました。
「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら……」
この言葉は現在、稚内公園の「9人の乙女の像」に刻まれている言葉でもあります。
そして彼女たちは、事前に用意していた青酸カリを服用し自決、足を紐で結び、倒れたときに見苦しくならないようにと配慮しながら、静かに最期を迎えました。
12名の交換手のうち9名が死亡、3名は服用量を誤って意識を失い男性局員により救助されました。
彼女たちはその後、助かったことで強い罪悪感を抱えながら人生を送りました。
記憶をつなぐ慰霊と語り継がれる思い出
真岡郵便電信局事件は、沖縄のひめゆり学徒隊と並んで「北のひめゆり」とも呼ばれています。
彼女たちは武器を持って戦ったわけではなく、銃弾をかわして戦地を駆けたわけでもありません。
それでもなお、戦場の中心で国家の通信を支える役目を最後まで全うした姿は、まぎれもなく名もなき英雄だったといえるでしょう。
現在、彼女たちの勇気と悲劇は、北海道・稚内にある9人の乙女の像や、ロシア領となった旧真岡(現ホルムスク)に設置された慰霊碑によって語り継がれています。
事件から80年近くが経とうとしている今も、命を懸けて仲間と市民を守った彼女たちの思いは、石碑を通じて静かに語られ続けています。
名前も顔も知らぬ交換手たちが示した勇気こそ、私たちが戦争の愚かさを学び、未来に平和をつなぐための道しるべとなるのではないでしょうか。
まとめ
真岡郵便電信局事件は、終戦後も止まらなかった戦火の中で、若き女性たちが通信を守るために命を賭けた実話です。
彼女たちは軍人ではなく、ただ職務を全うしようとした民間人でした。
それでも、彼女たちの行動は多くの人の命を支え、今も語り継がれる勇気の象徴となっています。
戦争が個人の尊厳を奪う愚かな行為であることを、この事件は私たちに静かに問いかけてきます。
だからこそ今を生きる私たちが、過去に目を向け平和の意味を考え続けることが大切なのです。
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