「釣りに行ってくる」――、昭和24年5月、そう言い残して家を出た男は、なんと3年後まで帰ってきませんでした。
根本博(ねもとひろし)、陸軍中将として名を馳せた軍人であり、終戦後の混乱期に台湾を救った男として、今なお台湾で深く敬愛されています。
釣竿を手に密航で台湾へ、その理由とは?
終戦から4年後の1949年、日本はGHQの占領下で復興の途中、中国大陸では共産党の毛沢東率いる人民解放軍と、蒋介石(しょう かいせき)の国民党軍による内戦が激化していました。
蒋介石は劣勢となり台湾へと撤退、毛沢東は中国本土の制圧を宣言し、台湾侵攻の準備を進めていました。
そのニュースを日本で聞いた根本は、胸の奥から熱いものがこみ上げてきます。
「恩を返さねばならない」…それだけを胸に、彼は家族にも何も告げず、釣竿を手に台湾行きを決意します。
そう、彼は恩義のために命をかけたのです。
終戦直後、四万人の日本人を救った奇跡の指揮官
1945年8月15日、日本の敗戦が伝えられたとき、根本は内モンゴルで「中蒙軍」の司令官を務めていました。
しかし、戦争が終わっても、ソ連軍は容赦なく侵攻を続け、日本人居留民たちを次々と襲ってきます。
そんな中、根本はマイクを手に取り、在留邦人にこう宣言します。
「日本は戦争に負けました。しかし我々中蒙軍の兵士及び兵器はいまだ健在です。 我々は、皆さん全員が無事に内地へ戻られるまで、武装解除はいたしません。 皆さんの命は、責任を持って、日本陸軍がお守りいたしますので、どうかご安心ください。」
この言葉通り、根本はソ連軍と真正面から戦い、4万人もの日本人の命を守り抜いたのです。
そして、このとき救援に駆けつけてくれたのが、蒋介石率いる国府軍で、彼らは逃げる日本人のために軍用列車まで提供してくれました。
その恩を、根本は一生忘れないと誓ったのです。
「この恩義に報いるめに、もしもこの身が必要とされるのであれば、私はいつでも馳せ参じます。」
その約束を、本当に命がけで果たしたのが、のちの台湾密航でした。
林保源として戦場へ、金門島防衛戦
宮崎の海岸から、ボロボロの密航者として上陸した彼は一度逮捕されますが、その名を聞いた台湾軍幹部が驚愕します。
「根本博中将だ!」やがて、蒋介石と再会を果たした根本は、中国名「林保源」を授かり、国府軍の顧問として金門島の防衛を任されます。
金門島は、台湾と中国本土の間に浮かぶ小さな島、ここを失えば台湾は中国共産党の支配下に落ちる、つまりこの戦いが台湾の命運を分けるラストバトルだったのです。
根本は地形を徹底的に分析し、人民解放軍の上陸地点を予測、さらにこう進言します。
「アモイ(廈門)は放棄して、金門島を要塞化せよ。」この作戦が、のちに台湾を守る奇跡の一手となりました。
奇策が生んだ逆転勝利
1949年10月、人民解放軍が金門島に上陸、その数は国府軍の数倍、誰が見ても台湾軍の敗北は明らかでした。
しかし根本は、敵を完全に上陸させた後、海岸に隠していた重油に火を放つという奇策を実行します。
炎に包まれた木造のジャンク船、退路を断たれた人民解放軍は大混乱に陥りました。
夜になると根本はさらに一計を案じます。
村人を人質にした人民解放軍を殲滅するのではなく、わざと包囲を解き逃げ場を与えたのです。
「ここで勝っても、人としての誇りを失ってはならない」と…しかしその退路こそ、国府軍の罠でした。
夜明けと同時に陸と海の両面から攻撃が開始され、人民解放軍は壊滅、この古寧頭戦役(こねいとうせんえき)こそ、台湾を救った伝説の戦いでした。
人民解放軍の死者は1万人以上、捕虜3千人、対する国府軍の損害は1200人程度、まさに奇跡の勝利です。
もしこの戦いで負けていたら、今の台湾は存在しなかったでしょう。
釣りはどうでしたか?妻の粋な一言
任務を終えた根本は、1952年に帰国、3年間の滞在を終えたその日、蒋介石は彼に花瓶を手渡しました。
それは国宝級の贈り物、同じ花瓶はイギリスのエリザベス女王と昭和天皇にも贈られたものでした。
3年ぶりに帰宅した根本は、何も語らず、釣竿だけを手にして帰ってきました。
そんな彼に、夫人は静かにこう言ったそうです。
「これだけ長い釣りでしたから、さぞ大きな魚が釣れたことでしょうね。」
この一言が、すべてを包み込む、なんて粋でなんて強い女性なんでしょう。
彼女もまた、戦い抜いたもう一人の英雄だったのかもしれません。
恩義のために生きた男
今の時代、ここまでまっすぐな生き方をする人は少ないかもしれません。
政治でも金でもなく、ただ「恩を返す」という信念だけで、国境を越えた日本人、それが根本博という男でした。
台湾では今も彼を英雄として語り継ぎ、日本の震災時には「日本が困っている時に助けたい」と、多額の寄付が台湾から届きました。
それはきっと、あの時代に根本が蒔いた友情の種が今も生き続けている証でしょう。
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