終戦後の1945年8月19日、日本が敗戦を迎えたわずか4日後、満州の空へ飛び立った特攻部隊が存在していたことをご存じでしょうか?
命令ではなく、自らの意思で出撃した彼らの名は「神州不滅特別攻撃隊」、なぜ戦争が終わったにもかかわらず、彼らは死を選んだのでしょう。
そして、その機に女性が同乗していたという事実が、さらにこの物語を特別なものにしています。
歴史の影に葬られた真実とは…?
終戦後も続いた地獄、満州に広がった悲劇

1945年8月15日、日本は玉音放送によってポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争に終止符を打ちました。
しかし、すべてが終わったわけではありません。
日本と中立条約を結んでいたはずのソ連は、終戦直前の8月9日、突然これを破棄し、満州(現・中国東北部)へと侵攻してきたのです。
ソ連軍の侵攻は容赦なく、民間人も標的となりました。
暴行、虐殺、略奪、敗戦国の民が味わった現実は、「戦争が終わった後」に訪れた地獄でした。
命令なき特攻「神州不滅特別攻撃隊」の誕生
この地獄のような状況の中、満州南部・大古山飛行場に駐屯していた11人の日本陸軍飛行教官たちは、一つの決意を固めます。
それが、「神州不滅特別攻撃隊」の誕生でした。
彼らは、教官として訓練していた若き特攻兵たちを送り出し続けていた自責の念を抱えていました。
また、目前に迫るソ連の戦車部隊から民間人を逃がすため、命と引き換えに時間を稼ぐという目的を持っていたのです。
これは正式な軍命令ではありませんでした。
むしろ、降伏命令に反する軍紀違反であり、命令違反の「私的特攻」でした。
しかし、彼らの行動には明確な意志と責任がありました。
「たとえ虎に小鉢で挑むような無謀な作戦でも、一瞬でもソ連の進撃を止められれば、多くの人が逃げ延びられる」と、彼らは密かに集まり作戦を立て、自らを「神州不滅特別攻撃隊」と名乗ったのです。
史上まれなる夫婦特攻、谷藤徹夫と妻・朝子の決意
神州不滅特別攻撃隊の隊員のひとりに、青森出身の谷藤徹夫中尉がいました。
終戦間近に呼び寄せた妻・朝子との新婚生活はわずか1ヶ月程度でしたが、誰もが羨むほどの相思相愛だったと伝えられています。
特攻出撃を決めた前夜、谷藤はその決意を朝子に告げます。
朝子は涙ながらにこう懇願しました。
「辱めを受けて生きるより、あなたと共に死にたい。どうか私も連れて行ってください。」
谷藤は「君のためにこそ死にに行くんだ」と説得しますが、朝子の決意は固く、ついに白いワンピース姿で夫の機に同乗、これが史上稀に見る「女性が搭乗した特攻」として記録されています。
翌朝、11機の特攻機が1機ずつ滑走を開始、北の空へと消えていきました。
戦後の冷遇と再評価、なぜ彼らは忘れられたのか?
しかし、彼らの決断は戦後に大きな代償を伴います。
日本政府と旧軍は、この行動を「命令に背いた自殺行為」「軍紀違反」と見なし、正式な戦没者認定を拒否、朝子の同乗も「女性を同乗させた軍規違反」として扱われました。
遺族は葬式すら堂々と開くことができず、戦犯同然の冷遇を受けることになります。
谷藤家もその例に漏れず、長い間世間にこの事実を語ることができませんでした。
しかし、元戦友たちの地道な働きかけにより、ようやく昭和42年(1967年)、東京・世田谷観音に「神州不滅特別攻撃隊慰霊碑」が建立、のちに厚生省から戦没者として認定され、靖国神社にも合祀されました。
また、ノンフィクション作家・豊田正義氏が『妻と飛んだ特攻兵 8・19 満州、最後の特攻』を執筆、この実話は後にドラマ化され、谷藤徹夫役を成宮寛貴さん、朝子役を堀北真希さんが演じ、多くの人に感動を与えました。
まとめ
神州不滅特別攻撃隊は、戦争という枠組みを超えて、人間の尊厳と愛そして責任が凝縮された歴史の証です。
終戦後という時期に、自らの意思で命を投じ、民間人を守ろうとした彼らの行動は、単なる特攻の一言で片づけられるものではありません。
特に、妻とともに死を選んだ谷藤徹夫と朝子の姿は、現代に生きる私たちに平和の尊さと命の重みを改めて問いかけています。
この幻の特攻隊の存在を知り、忘れずに語り継ぐこと…それが彼らが命を懸けて伝えようとした「本当の勇気」の意味を、後世に残すことなのではないでしょうか。
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