【戦慄】夢の島がハエ天国だった!?地獄すぎる日常の驚愕な光景とは…?

【戦慄】夢の島がハエ天国だった!?地獄すぎる日常の驚愕な光景とは…?

今ではスポーツ施設や植物園が広がる「夢の島」、しかし半世紀前この地はハエの天国と呼ばれ、人々の生活を直撃する深刻な公衆衛生問題の震源地でした。

小学校では子供たちが授業中もハエたたきを手放さず、家庭では蚊帳の中で食事をする…そんな暮らしを想像できますか?

今回は、昭和の東京を震撼させた夢の島のゴミ問題と、その背景、そして解決への道を振り返ります。

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夢の島がごみの島になった理由

夢の島がごみの島になった理由
VIA|Wikipedia「学校でハエ取りをする南砂町の小学生」(公式より引用)

夢の島の埋立が始まったのは1957年(昭和32年)、当時の東京は高度経済成長期の真っただ中で、生活水準の向上とともに家庭ごみが急増していました。

本来であれば清掃工場で焼却するはずのごみも、工場建設が追いつかず、そのまま生ごみや不燃物を埋立地に投棄していたのです。

生ごみは発酵し、内部ではメタンガスが発生、これが自然発火を繰り返す原因となり悪臭も常に漂っていました。

中でも深刻だったのが害虫、特にハエの大量発生です。

高さ約20メートル、幅270メートルにも及ぶ生ごみの断崖はまさにハエの繁殖場、ここから生まれた無数のハエが南風に乗り、江東区南西部をはじめとする広い地域へ拡散していきます。

1965年(昭和40年)7月16日、このハエの大群が住宅街や学校を襲い社会問題化します。

教室や台所に入り込むハエの勢いはすさまじく、食事や授業がまともにできないほどでした。

日常を侵食したハエ地獄の暮らし

当時の映像や記録を見ると、被害がどれほど深刻だったかがわかります。

小学校では授業中も子供たちがハエたたきを手にして教室を駆け回り、休み時間はハエ退治が半ば日課のようになっていました。

家庭でも事情は同じ、食卓には蚊帳が吊られ、その中で食事をとることでようやくハエを避けられる状態で、少しでも油断すれば食べ物や調味料にハエが群がっていました。

衛生面の不安も大きく、食中毒や感染症のリスクが常につきまといました。

生ごみが山積みになった埋立地からは悪臭が漂い風向き次第で一帯に広がり、洗濯物を外に干せばハエや匂いが付着する、そんな日常が数年にわたって続いたのです。

これに対処するため、東京都と江東区は殺虫剤を散布し、地元住民や学校も協力して駆除活動を展開、しかし断片的な消毒では根本解決にはならず、ついに警察・消防・自衛隊まで動員される事態へと発展します。

夢の島焦土作戦とその教訓

1965年夏、東京都は「夢の島焦土作戦」と呼ばれる大規模駆除作戦を実行、生ごみの断崖そのものを焼き払うという大胆な作戦で、警察・消防・自衛隊が協力して行われました。

結果、目に見える大量のハエは減少しましたが、そもそもの原因は未焼却のごみを埋め立てていたことにありました。

その後、都は清掃工場の整備を急ぎ、生ごみは原則として焼却処分されるようになります。

これにより、害虫発生や腐敗ガスによる火災リスクは大幅に減少、夢の島は徐々に緑化され現在では公園やスポーツ施設、植物園など、市民が憩う場所へと生まれ変わっています。

しかし、この経験が残した教訓は重いものです。

高度経済成長期の東京は、環境対策の遅れが市民生活にどれほど直接的な被害を与えるかを、夢の島の事例で痛感したのです。

まとめ

夢の島のハエ問題は、単なる衛生トラブルではなく、都市のごみ処理能力不足が招いた大規模な生活被害でした。

ハエたたきや蚊帳に頼らざるを得ない日々は、多くの人々にとって忘れがたい記憶となっています。

そして「夢の島焦土作戦」に象徴されるように、この問題を契機に清掃インフラの拡充や衛生管理の意識が一気に高まりました。

現代の東京では、同じような惨事はほぼ考えられません。

しかし、埋立地の環境対策やごみ減量の取り組みは今も続いており、私たちが当時の教訓を忘れずに行動することが、未来の都市環境を守る鍵となります。

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