徳川家斉は、公式記録で53人もの子どもをもうけ、日本史でも屈指の子だくさん将軍と呼ばれています。
なぜ彼はそれほどまでに子を残したのか?今回は、徳川家斉の実像を制度・価値観・世評の三つの視点から紹介します。
徳川家斉、数字が物語る規格外の将軍
徳川家斉は1773年生まれ、10代将軍・徳川家治の養子となり、1787年、わずか15歳で将軍に就任しました。
彼の名を語るうえで外せないのが、子どもの数で、男子26人、女子27人、計53人という数字は、将軍家のみならず、同時代の大名を見渡しても突出しています。
もっとも、53人全員が成人したわけではなく、江戸時代は乳幼児死亡率が非常に高く、家斉の子どもも約半数が成人前に亡くなっています。
このため現代の感覚で見ると、異常な多産に見える行為も、当時としては極端に逸脱したものではありませんでした。
それでも、ほぼ毎年のように子が生まれていたという事実は、やはり規格外と呼ぶにふさわしいでしょう。
正妻は薩摩藩主・島津重豪の娘でしたが、側室は多数存在し人数は20人以上とされます。
さらに、江戸城大奥には600~700人規模の女性が暮らしており、家斉の私生活は制度として整えられた巨大な空間の中で営まれていたのです。
子作りは将軍の公務
家斉の子だくさんぶりは、好き・放蕩といった言葉で語られますが、江戸時代の価値観に立ち返ると、見え方は大きく変わります。
当時、将軍や大名にとって最大の責務は家の存続、つまり確実な世継ぎを残すことで、後継者がいなければ原則としてお家断絶、例外として末期養子という制度はありましたが、それはあくまで非常手段であり、理想は実子による継承でした。
家斉自身が養子として将軍になった人物であることを考えれば、血縁を多く残すことに執着した理由も理解できます。
実際、成人した家斉の子どもたちは、男子は徳川一門や有力大名家へ養子に、女子は正室として各地へ嫁いでいきました。
こうして家斉の血筋は日本各地の大名家に広がり、後世では揶揄的に相続テロとも呼ばれますが、見方を変えれば後継者不足に悩む家々を救う保険でもあったのです。
オットセイ将軍と呼ばれた理由
徳川家斉には、もう一つ非常に有名なあだ名があり、それが「オットセイ将軍」です。
この呼び名の由来は、彼が精力増強のために、オットセイ(海狗)の急所を乾燥させ、粉末にしたものを服用していたと言われており、53人という子どもの数と結びつけられ、「精力絶倫の将軍」「オットセイ将軍」という、やや揶揄を含んだ呼称が定着していったのです。
一方で、家斉の行動が批判の対象になったのも事実で、子どもたちの婚礼費用や持参金、養育にかかる費用は幕府や諸藩の財政を圧迫し、贅沢な大奥文化と相まって、「将軍は遊んでいるのに、庶民は苦しい」という不満が広がったことも否定できません。
その象徴的な評価が、オットセイ将軍という皮肉な呼び名だったとも言えるでしょう。
まとめ
その背景には、乳幼児死亡率の高さ、家督相続を最優先する制度、そして幕府を安定させようとする政治的判断がありました。
徳川家斉とは、評価が極端に割れやすい存在でありながら、江戸時代という社会の矛盾と現実を、その身一つで体現した将軍だったと言えるでしょう。
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