歴史に残る「モテ女」として語り継がれている芸者がいるのをご存知でしょうか?
江良加代(えら かよ)は、明治時代に数々の大物政治家や財界人を虜にした伝説の女性です。
彼女は美しさだけでなく、その生まれ持った品格や才能、さらには自分の価値を計算して活用する賢さで、時代の偉人たちを次々と手玉に取りました。
大物政治家を虜にした最強のモテ女「江良加代」
京都祇園で育まれた美と才能
江良加代は文久2年(1862年)、京都祇園の近くで生まれました。
彼女の母親は華頂宮家に仕えており、幼少期から品のある育てられ方をしたと言われています。
生まれながらに美しかっただけでなく、幼い頃から芸事にも優れており、特に舞や歌に秀でていました。
成長した加代は、母の勧めで祇園の有名な井筒屋から芸者デビューを果たします。
デビュー当時、加代はまだ10代の少女でしたが、その美貌と芸の巧みさは京都中に瞬く間に広がり、彼女は一躍売れっ子芸者となります。
西園寺公望との恋
そんな江良加代の元に現れたのが、後に内閣総理大臣となる西園寺公望(さいおんじ きんもち)です。
西園寺は加代に惚れ込み、なんと正式に求婚するまでに至ります。
西園寺家は「正妻を迎えない」という家訓を持っており、彼の家族はこの結婚に大反対。
西園寺はやむを得ず、加代を祇園に返すことになりました。
この別れの際、西園寺は加代に多額の手切れ金や豪華な贈り物を渡したと言われています。
加代はまだ13歳の若さで、西園寺に見初められたというのだから、その美しさと魅力がどれほどだったかがわかります。
木戸孝允との遠距離恋愛
加代が次に虜にしたのは、明治維新の立役者として知られる木戸孝允(きど たかよし)でした。
木戸には妻がいましたが、加代との関係は非常に親密で、彼女との遠距離恋愛を続けていたと言われています。
京都に住む加代と、東京に拠点を置いていた木戸は離れていながらも深い愛情で結ばれていました。
しかし、加代が将来木戸と結婚するという夢は、木戸が43歳で急死したことによって破れてしまいます。
木戸の突然の死に、加代は大きな衝撃を受けました。
伊藤博文の愛妾時代
加代の悲しみを慰めたのは、またもや大物政治家でした。
日本の初代内閣総理大臣であり、女好きとしても知られる伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、加代の魅力に惹かれたのです。
伊藤は加代に対して惜しみなく財力を使い、彼女を祇園の行事「練り物」に参加させる際には、衣装代をすべて負担するほどでした。
しかし、伊藤との関係も長続きせず、彼の借金問題や女遊びが原因で、加代は自ら関係を終わらせる決断をします。
「金の切れ目が縁の切れ目」とはまさにこのことを指していたのかもしれません。
三井財閥との結びつき
伊藤博文との別れの後、江良加代はさらに大きな運命を手にします。
彼女を身請けしたのは、三井財閥の一族である三井源右衛門(みつい げんえもん)でした。三井家の正妻にはなれなかったものの、妾として正妻とほぼ同じ待遇を受け、源右衛門との間に4男2女をもうけました。
加代は、三井家で非常に大切にされ、その生涯を全うします。
大正5年(1916年)に52歳で亡くなりましたが、彼女は生涯にわたって多くの人に愛され、三井家の墓所に葬られるという、妾としては異例の厚遇を受けました。
江良加代の生涯を振り返って
江良加代の人生は、ただ美しいだけの女性では語り尽くせません。
彼女は自分の価値を知り、それを最大限に活かし、多くの大物たちを魅了しました。
その美しさと品格、そして自らを高く売るしたたかな戦略で、彼女は祇園の華として輝き続けました。
加代が遺した写真は当時飛ぶように売れ、彼女の美貌は時代を超えて多くの人々に称賛されました。
牡丹や百合の花も霞むほどの美しさと評され、その写真は現在でも江良加代の伝説を語り継ぐ証となっています。
※画像|pinterest (引用)
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