もし、日本が東西に分断されていたら…。
1945年8月、日本が終戦を迎えた直後、ソ連は北海道の占領を計画していました。
しかし、その野望を打ち砕いたのが、ある一人の日本軍人です。
その名は「樋口季一郎」彼の決断がなければ、北海道はソ連の支配下に入り、日本はドイツや朝鮮半島のように南北に分かれていたかもしれません。
なぜ彼の行動が日本の運命を変えたのか、その歴史を振り返りながら、彼が今の日本にもたらしたものを紹介します。
終戦後の混乱とソ連の北海道侵攻計画

第二次世界大戦末期、1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、突如日本に宣戦布告しました。
満州、南樺太、千島列島に侵攻し、さらには北海道北部の占領を計画していたのです。
ソ連のスターリンは、北海道を南北に分断し、北半分をソ連の影響下に置くことで、日本を事実上の東西分断国家にしようとしていました。
これは、戦後の東ドイツ・西ドイツや、南北朝鮮と同じ構図です。
ソ連はすでに南樺太と千島列島を占領し、次のターゲットとして北海道に狙いを定めました。
しかし、ソ連軍の北海道進攻計画には一つの障害がありました。
それは、日本軍が依然として北方地域に駐屯していたこと、そしてその指揮を執っていたのが樋口季一郎であったことです。
占守島の戦いと樋口の決断
ソ連軍は北海道侵攻の足掛かりとして、まずは千島列島の最北端にある占守島(しゅむしゅとう)に狙いを定めます。
8月18日、終戦からわずか3日後に、ソ連軍は占守島に上陸を開始。
しかし、ここで予想外の事態が起こります。
本来、日本政府(大本営)は無条件降伏を受け入れ、戦闘を停止するよう命令を出していました。
しかし、樋口季一郎はこれを無視し、「占守島を死守せよ」と第91師団に命令。
停戦を無視するという大胆な決断により、日本軍は戦車隊を投入し、ソ連軍を迎え撃ちました。
結果、ソ連軍は約3,000人の戦死者を出し、大きな損害を被ることになります。
この戦闘により、ソ連の北海道侵攻計画は頓挫し、スターリンは北海道の占領を断念することを余儀なくされました。
もし、樋口が戦闘停止命令に従い、無抵抗で占守島を明け渡していたら、ソ連はそのまま南下し、北海道北部を占領していた可能性が高いのです。
ソ連の報復とアメリカによる保護
戦後、ソ連は樋口を「戦犯」として処刑しようと画策し、連合国(GHQ)に身柄の引き渡しを要求しました。
しかし、アメリカのマッカーサーはこれを拒否。
背景には、樋口が戦前にナチスの迫害から逃れたユダヤ人約2万人を救ったという実績がありました。
これにより、アメリカ国内のユダヤ人団体が樋口の擁護に動き、アメリカ政府を通じて彼を守る動きが広がったのです。
結果的に、樋口は戦犯として処刑されることなく、戦後を生き延びました。
そして1970年、82歳でその生涯を閉じました。
日本分断を阻止した樋口の功績
占守島の戦いがなければ、北海道の北半分はソ連に占領され、日本は南北に分断されていた可能性が高いと考えられています。
もしそうなっていたら、戦後の日本はまったく異なる姿になっていたでしょう。
- 北海道がソ連領になっていた可能性|ソ連が占領した地域は、そのままロシア領となり、現在の北方領土問題以上の領土問題が発生していた可能性がある。
- 日本が東西に分裂していた可能性|北日本と南日本に分かれ、東西冷戦の影響を大きく受けていたかもしれない。
- 沖縄の返還にも影響|北海道がソ連に占領されていた場合、沖縄がアメリカに返還されることもなかった可能性が高い。
樋口の決断と行動は、日本の領土を守り、現在の日本の形を維持する上で決定的な役割を果たしました。
まとめ
樋口季一郎は、終戦後の混乱の中、停戦命令を無視してまで占守島を防衛し、ソ連軍に大打撃を与えたことで、北海道がソ連の支配下に入ることを阻止しました。
彼の決断がなければ、日本は東西に分かれ、現在の形とはまったく異なる国になっていた可能性があります。
彼の勇気ある決断と行動が、今の日本を形作る上で重要な役割を果たしたことを忘れてはなりません。
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