宝くじのルーツをたどると、なんと400年以上も昔にさかのぼることをご存じでしょうか?
ただの運試しじゃない、そこには人々の夢、信仰、そして国家の思惑まで詰まっていたんです。
今回はそんな宝くじの歴史を、過去から現代までたっぷり紹介します!
宝くじのルーツは「寺の資金集め」だった

日本での宝くじの原型は、江戸時代中期に登場した「富くじ」と呼ばれるものでした。
これは、いわば寺社による「自主発行型くじ」で、当時の宗教施設が修繕費や活動資金を調達するために考案したものです。
くじを引く行為自体は、信仰や祈願の延長線上にあったもので、最初は「お守りが当たる」縁起物としての意味合いが強かったと言われています。
ところが、しだいに金銭や米などが副賞として用意されるようになり、庶民の間で爆発的な人気を博します。
とくに有名だったのが「江戸三富」と呼ばれる以下の3つの寺社です。
- 浅草観音(浅草寺)
- 目黒不動尊
- 湯島天神
これらの寺では、月に一度ほどの頻度で富くじを開催していました。
抽選方法は、木札や紙札を引くというアナログで公正性の高い形式で行われていました。
富くじの売上は寺の修繕や社会活動に使われており、現代の「収益の一部を公共事業に」という宝くじの仕組みにも通じます。
しかし、人気が過熱するにつれ賭博性が問題視され、倫理的政治を重視した徳川綱吉が「風紀を乱す」として富くじを禁止。
それでも庶民のくじ熱は冷めず、その後も何度も再開と規制を繰り返すことになります。
このあたりから、宝くじはすでに「人々の夢」そのものになっていたと言えるでしょう。
戦後の復興とともに「勝札」へ進化
明治時代以降、富くじは完全に禁止されていましたが、時代は流れて第二次世界大戦後。
焼け野原となった日本の復興のため、政府は新たな資金調達の手段として、1945年10月29日に「勝札(かちふだ)」という名の宝くじを発売します。
当時の価格は1枚10円。
現在の物価換算では数千円程度という、当時としては高価な買い物でしたが、それでも多くの国民が夢を託して購入しました。
1等賞金は10万円(現在の価値で数百万円相当)で、戦後の苦しい生活の中で、まさに「人生を変える一枚」だったのです。
以降、宝くじは政府主導で制度化され、「ジャンボ宝くじ」「年末ジャンボ」「ナンバーズ」「ロト6・7」「スクラッチ」など、バリエーション豊かに展開されていきます。
中でも「ロト」や「BIG」などの数字選択式くじは、ただの運任せではなく自分で選ぶ楽しさがあることから、幅広い世代に人気を博しています。
販売を担うのは、みずほ銀行の「宝くじ部」。
実際には全国の売り場やネットでも購入可能ですが、直営売り場は約400か所のみ。
ここに「販売の独占性があるのでは?」という声もありましたが、銀行側は「独占ではない」と説明しています。
さらに、宝くじの収益は、地方自治体を通じて福祉・医療・教育・防災などの公共事業に還元されており、いわば「夢と社会貢献」を両立する仕組みになっています。
いま、宝くじに求められるものは「夢」だけじゃない
ところが近年、宝くじに対する不信感の声も高まりつつあります。
SNSでは、「ロトBIGを5口買った後に10口追加したら、まったく同じ番号が出た」といった投稿が拡散され、それに対し運営会社は「システム不具合ではなく、偶然起こりうることであり、変更の予定はない」と説明。
しかし、この一件で「システム的に操作されているのでは?」と疑う声が少なくありません。
また、「当店で1等出ました!」と書かれた売り場の看板も、実際にはその売り場に割り当てられていた番号が当たっただけで、その場で売られたかどうかは不明なことも多いのです。
さらに、高額当選者の声がSNSやメディアに出てこないことも、透明性に対する疑念を深める原因となっています。
海外では、宝くじの当選者が顔出しでインタビューを受ける文化があり、それが信頼感の担保につながっています。
一方、日本ではプライバシーを尊重する文化から、当選者情報は一切公開されません。
これが逆に、「本当に当たっているのか?」という不安を生んでしまっているのです。
まとめ
寺の縁起物から始まり、戦後復興のための勝札、そして現在のジャンボ宝くじやロトへ…。
日本の宝くじは、時代の背景や社会のニーズに応じて柔軟に姿を変えてきました。
今や「夢を買うもの」として親しまれる存在ではありますが、その夢を信じるには、運営の透明性や信頼性がより一層求められる時代になっています。
400年の歴史を持つ宝くじが、これからも愛され続けるためには、過去の伝統を大切にしつつも、新しい仕組みやオープンな姿勢が必要なのかもしれません。
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